礼拝説教
/2025年8月23日、24日 聖霊降臨後第11主日説教要旨
「神の恵みは年中無休」
イザヤ58:9b-14、ヘブライ12:18-29、ルカ13:10-17
聖書の掟である律法において、一週間の七日目の「安息日」は、神の民が守らなければならない最も重要な掟の一つとされています。安息日は神を賛美するためにすべてを休む日であり、それ以外のことはしてはならない。そしてイエス様の時代は、その安息日を守るための基準が細かく定められていました。
そして今日、イエス様が18年間も腰が曲がったままの女性を癒されたこと、それは当時の安息日規定では労働に当たります。もちろんこの決まりにも例外はあり、緊急の医療行為などは律法違反になりません。しかしこの場合、この女性は、イエス様がここで癒しを行わなかったとしても、すぐに命の危険があったわけではない。イエス様はここで翌日でもよいはずの癒しを安息日に行なわれた、そのことで非難を受けておられるのです。
しかし目の前にいるこの女性に、確かに今日明日のいのちの危険はないかもしれません。しかしこの人は、ここまで18年間、なすすべもなく生きて来た。イエス様は、世のまなざしとは異なるところで、この女性のいのちを見ておられます。「彼女は18年間も苦しんだのだ、だからこそこの安息日は、彼女が解放され、神の民として回復されるときである」。彼女は、安息日の喜びから決して排除されるものではない。彼女が神の民として祝福されていることが示され、尊厳が回復されること、それこそこの日にふさわしいとイエス様は考え、そしてこの安息日のただ中に、この人に神の祝福を示すため、働かれたのです。
聖書の安息日の掟の本質は、家畜や奴隷も含めたすべての人が労苦から解放され、いのちを回復するというところにありました。イエス様の安息日の癒しは、その本来の喜びに帰れという、当時の社会へのチャレンジでもありました。
私たちは普段、自分のしたいように考え、したいように行動します。自分のものさしによって生きています。しかし、この日はその私たちがその弱さから解放し、本来あるべき喜びの姿へと回復する日でもあります。神が与えてくださったこの回復の日に、わたしたちも今日招かれています。私たちもまた、神のいのちを共に喜ぶ日として過ごし、また日々に帰って行きたいと思います。