礼拝説教
/2026年9月19日、20日 聖霊降臨後第17主日 礼拝説教
要旨
「神さまの不公平」
ヨナ3:10-4:11、フィリピ1:21-30、マタイ
20:1-16
今日の福音書のイエス様のたとえ話について、「この主人は不公平だ
」と感じる人は、決して少なくないのではないでしょうか。長い時間を
一生懸命働いたものがたくさんもらって、そうではないものは少なく支
払われる。それは当たり前のことではないか、と。
しかし、私はこのたとえ話を読むときに、かつてマレーシアのサバ州
を訪問した時に見た、日雇い労働者の方々が雇われて行く光景を思い出
します。雇い主のトラックが、集まった人の中から幾人かを選んでいく
。そこで最後まで残されて行くのは体力がない、弱い人たちです。私た
ちは、今日のイエス様のたとえ話に、そのような人々の姿を重ねて見る
こともできるのではないかと思います。
このぶどう園の主人は、夕方五時ごろまで立っていた人たちに「どう
して一日中立っているのか、何があったんだ?」と尋ねます。立ち尽く
している彼らのことを、決して決めつけることなく、その人が抱えてい
るもの、彼らのおかれている状況に目を止める。神様はそのように私た
ちに眼差しを注ぎ、声をかけ、招いてくださる方なのだ、とイエス様は
おっしゃっているのです。
しかし残念ながら、そのような眼差しで物事を見ることができないの
が、私たちです。「わたしの気前の良さをねたむのか」と主人は言いま
す。「ねたむ」という言葉は、原文では「悪い目」という表現になって
います。私たちはおそらくこのような眼差しを誰かに向けるということ
、その状況に覚えがあると思います。この世界は、残念ながら「悪い眼
差し」がまかり通ってしまうところであるかもしれません。しかし、そ
の私たちを包んでいる、神様の眼差しがあるのです。
このぶどう園の主人は、ここで不平を言う者に「友よ」と呼びかけて
います。不平を言い、悪い眼差しを持ってしまう私たちのことを、それ
でも「友よ」と呼んでくださる方がおられるのです。たちはどうしても
この悪い眼差しから抜け出すことは難しいものであるかもしれない。し
かし、それでも私たちをどこまでも「友」として扱ってくださる方が、
私たち招いておられます。この神の眼差しの中で、お互いのいのちを喜
び合うものとして、ここから出発していきたいのです。