礼拝説教
/2026年3月28日、29日 枝の主日/受難主日礼拝説教要旨
「受難」
マタイ21章1―11、マタイ26章14~27章66
イースターまであと一週間、イエス様のご受難を記念する受難週を迎えました。復活の喜びを迎える前に、私たちはイエス様の十字架をくぐり抜けます。
今年は、マタイ福音書から受難の出来事が語られました。やはりこの場面で目が行くのは、イエス様を銀貨三十枚で引き渡したユダ、そしてイエス様を三度「知らない」と言ったペトロ、この二人ではないかと思います。聖書によれば、この福音書でユダは死を選び、ペトロはイエス様の復活後の初代教会のリーダーとなりました。
しかしイエス様が逮捕された夜には、ペトロもまたイエス様のことを三度「知らない」と否定しました。そして、ユダ以外の十一人の中で、イエス様に最後までついていくことができた者は、一人もいなかったのです。また、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだ群衆、群衆の声に負けて死刑の宣告をしたピラト、イエスを侮辱した兵士たち…そして、イエスは神からも人からも棄てられて、死なれます。この十字架の中に現れている人間の姿から、わたしたちは目をそらしてはいけないのだと思います。
「おお、人よ、汝が罪の大いなるを嘆け。それゆえにイエスは神のもとを出て世に降られた」(J.S.バッハ「マタイ受難曲」より)
イエス様は今日、御自分を裏切ろうとしているユダに対しても「友よ」と呼びかけられましたし、これから起こることを知っていてなお、イエス様は弟子たちを最後の晩餐において愛しぬかれました。わたしたちはこの十字架の出来事に打ち砕かれます。そして、それでもなおそのようなわたしたちを、深い思いをもって愛しぬくことを選んでくださった方がおられるのです。
十字架には、神のわたしたちへの強い思い、想像を絶する愛があらわれている。その恵みの大きさを本当に実感することはわたしたちには不可能かもしれませんが、それでもこれから始まる受難週を大切にすることによって、ほんの少しでもその思いにあずかることができればと思います。