2026年3月21日「ただ、あなたがたのため」西川晶子牧師

礼拝説教

/2026年3月21日、22日 四旬節第五主日礼拝説教要旨
「ただ、あなたがたのため」

エゼキエル37:1-14、ローマ8:6-11、ヨハネ11:1-45
今日の福音書の中で、兄弟ラザロを失ったマルタとマリアはイエス様
に言います。「主よ、あなたがここにいてくださったら、ラザロは死な
なかったでしょうに。」「主よ、あなたがここにいてくださいましたら
」この言葉はいまも世界中であふれている願いであって、うめきではな
いかと思います。
この世の痛みの中で、やはり死というものはもっとも大きな別れであ
り、痛みです。その混乱と哀しみは本当に言葉にならないものである。
その中に、今日のマルタとマリアの姉妹も放り出されています。
マルタとマリアはもうなすべきことをすべて終え、埋葬も終わってし
まっている。ラザロはもう死んで四日も経っていて、遺体も朽ち果てて
しまっている。ラザロはもう向こう側に行ってしまって、もうこちらか
らの手は届かない。しかし、それを越えて届いた恵みがある、と聖書は
言うのです。もう完全にすべてが終わった、もうここから良いものなど
生まれるはずがない、おそらくその場のだれもがそう思われる所から、
イエス様はラザロを立ち上がらせます。
聖書はイエス様がこのラザロとマルタとマリアを愛しておられた、そ
のことを繰り返し強調します。イエス様は「心に憤りを覚え、興奮して
言われた」。イエス様は、私たちを愛し、私たちの現実で起こるどうし
ようもないできごとに、心を揺さぶられてくださる方である。そのこと
をイエス様は、墓の中からラザロを起き上がらせる、という形で示され
ます。
ラザロに起こったのと同じことが、今の私たちに起こるというような
ことはほぼないだろうと思います。しかし、イエス様はラザロのできご
とを通して、死を越えてなお、神様は私たちの主であるということ、嘆
きやすべてが終わったと思えるような出来事の中で、そのすべてを越え
て届く恵みがあるのだということです。
このできごとをきっかけに、イエス様の十字架はほぼ決定的になりま
す。十字架(とそこからの復活)こそが、わたしたちに与えられた神さ
まからの最大のしるしである。不信仰や絶望や、様々な思いに満ちてい
るこの世の中で、しかしそれを超えて働いてくださる方がおられる。そ
の方を見上げたいのです。