礼拝説教
/2025年8月30日、31日 聖霊降臨後第12主日説教要旨
「天国の食卓」
箴言25:6-7a、13:1-8&15-16、ルカ14:1&7-14
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」今日のこのイエス様の言葉に私たちはあまり違和感を感じないかもしれません。特に日本では、上座下座が決まっている席であっても、好んで上席を選ぶ、という場面はあまり見られないように思うからです。
しかし、末席を選びがちだからといって、わたしたちが心からへりくだっているかと言われれば、決してそうではない。むしろ遠慮して末席を選ぶようなときであっても、内心では高ぶっていることがあります。実のところ、私たちは自分の心の高慢から、本当に自由になることはできないのかもしれません。
今日のイエス様の言葉は、あるファリサイ派の議員の家の食卓において語られた言葉です。今日の福音書の日課の省略された部分では、この食事のとき、イエス様は食事の前に水腫を患っていた人を癒されたことが示されています。しかしこの人はどうやらそのまますぐに帰されたようで、この食卓に連なることは許されなかったようです。しかし、この病の人にこそ、「さあ、もっと上席に来なさい」という恵みの言葉が語られるのだと、イエス様は示されます。
当時の会食と言うのは、立場が同じ人々、社会的身分が同程度の人々が招かれるのが暗黙の了解だったそうですが、イエス様はおそらくこのとき、この食卓に居た人々からすれば意識の外にあったに違いない、当時の社会で周縁に置かれていた人々が共に食事の席に着く食卓を、理想的なものとして語られます。それはイエス様の歩みに現れているように、それこそが本来の安息日の食卓、神様が望んでおられることだからです。
同じ食卓に着く、というのは「仲間である」ことのしるしです。イエス様はこのとき、ファリサイ派の人からの招きを断っておられません。イエス様はそうやって、ご自分に敵対する者たちと、厳しい言葉によってではありますが、徹底的に向かい合われた。その方が、このわたしたちの食卓の只中で、客として、また主人として、わたしたちと出会ってくださっている。私たちが招かれたのは、ただその神の深い憐れみによる。そのことをすべての中心に据えて歩みたいのです。