礼拝説教
/2025年7月19日、20日 聖霊降臨後第六主日説教要旨
「マルタとマリア」
創世記18:1-10a、コロサイ1:15-28、ルカ10:38-42
忙しく働くマルタと、じっと静かに座るマリア。マリアはよくてマル
タは間違っている、マルタのような態度はよくない、と断罪してしまう
のであれば、私たちはおそらくこの物語の本質を読み誤ってしまうと思
います。
そもそも、ここで問題とされているのは、マリアが単にマルタだけに
働かせて自分は働いていないというだけのことではありません。ここで
マリアはほかの男性の弟子たちと同じように座り、イエス様の弟子とし
てイエス様のみことばに耳を傾けています。マリアは男性社会の中心で
、イエス様の言葉にほかの男性と同じように耳を傾けている。それはお
そらくマルタだけではなく、そこにいた他の人々からも非常識ととらえ
られる行動でした。マ
しかし、そのマリアの選択をイエスは認め、マリアはよいものを選
んだ、とみなされる。ここにあるのは、ひとりの存在が、イエスによっ
て確かに認められ、その人自身としてイエスのそばに招かれ、受け入れ
られる物語なのです。
マルタの「もてなし」という言葉は「ディアコニア」という言葉が使
われます。神のために隣人に仕える貴い奉仕をあらわす言葉です。しか
し、イエス様はマルタに対しこんなふうにおっしゃいました。「あなた
は多くのことに思い悩み、心を乱している。」イエス様がマルタをたし
なめられるのは、座っていないことではないのです。マルタが心を乱し
てしまっていること、そしてそのことによってマリアの権利を取り上げ
ようとしていること。そしてそのことによって、マルタ自身が神の福音
から離れて行こうとしていること、そのことではないかと思います。
「マルタ、マルタ」とイエス様はマルタを呼ばれます。ルカ福音書の
中でイエス様から名前を2回呼ばれる人は、他には一番弟子のペトロだけ
であり、彼女に特別にイエス様が目を留めてくださっているしるしです
。
マリアとマルタは共に神のみことばに招かれ、仕えるものです。しか
しもし自分が「思い悩み、心を乱し」て、イエス様のまなざしを感じる
ことができないとしたら、やはりそれは私たちがイエスの足元に座ると
きなのでしょう。