礼拝説教
/2025年12月6日、7日 待降節第二主日説教要旨
「石ころにもクリスマス」
イザヤ11:1‐10、ローマ15:4-13、マタイ3:1-12
旧約聖書の預言書である「イザヤ書」が読まれました。「エッサイの
株からひとつの芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち…」エッ
サイとは、古代イスラエルに繁栄をもたらしたダビデ王の父親の名です
。この個所は、その子孫から聖書の民を救う救い主が現れる、という預
言であり、イエス様の誕生を予告しているとされるところです。しかし
、イエス様がお生まれになった時代、その「エッサイの根」は「株」、
つまり「切り株」となってしまっていました。まさにこのときの神の民
は、「荒れ野」に打ち捨てられた切り株のような状態だったのです。
毎年、この待降節第二週にわたしたちはこの「荒れ野で叫ぶ者の声が
する。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」というメッセー
ジを聞きます。荒れ野のイメージは孤独・渇き・無です。生きたものが
何もいない世界です。そして、荒れ野というのはわたしたちが自分自身
の見たくない姿、自分を取り繕っている様々なものがはぎとられて、自
分の現実と直面するところです。
今日の福音書の中では、イエス様の先触れとして登場する洗礼者ヨハ
ネが、その荒れ野で人々に洗礼を授ける時の様が記されています。彼は
、そこにやってきたファリサイ派や律法学者という人たちに「蝮の子よ
、差し迫った神の怒りを逃れられると思ってはならない」と厳しく伝え
ます。彼らはむしろ自他ともに「救いにふさわしい」と認められるよう
な人々でした。しかしヨハネは「主はこんな石ころからでもアブラハム
の子を作り出すことがお出来になる。」と言います。
アブラハムの子とは「神の救いにあずかる資格がある者」ということ
です。これは痛烈な皮肉であると同時に、救いの言葉です。石ころにも
神の救いが訪れる。聖書はイエス様が「エッサイの根」から生まれた者
であることを語ります。それは血筋を誇るためではなく、イエスさまの
存在こそが、もうすべてが枯れ果てたと思われたところに神様が与えて
くださった、救いのしるしであるからです。聖書の神の民の姿は我々自
身の姿でもあります。しかし、その私たちの荒れ野をめがけて訪れてく
ださる方がおられる、これこそがクリスマスの福音なのです。その恵み
を思いつつ、待降節を大切に過ごしてまいりましょう。