2025年11月1日「追憶と記念」西川晶子牧師

礼拝説教

/2025年11月1日、2日  全聖徒主日説教要旨

「追憶と記念」

ダニエル7:1‐3&15‐18、エフェソ1:11-23、ルカ6:20-31

11月1日は、伝統的にキリスト教会の暦で先に天に召された方々を記念する「全聖徒の日」です。私たちは今日のこの礼拝において、先に天に召されたすべての方々を思い起こし、また天国を思い起こし、記念します。

この特別な日だけではなく、キリスト教において、礼拝とはまだ見ぬ天国を「垣間見る」ときであるとされています。私たちからは、天国の様子を見ることはできませんが、この礼拝において私たちは、目に見えない神の国とそこで安らいでおられる方々、そして私たちもいずれその恵みにあずかるのだということを記念するのです。

かつては「聖人」「聖徒」というのは、いわゆる敬虔な信仰に生き、あるいは教会の歴史に残るような特別な善行を積んだ人を指す言葉でした。しかし現在、この「全聖徒の日」を守るとき、この「聖徒」というのは神に結ばれたすべての人を言います。この教会の交わりも「聖徒の交わり」です。しかし私たちは聖徒と呼ばれるようなものだろうか。また、先に召された方々は果たしてそうだっただろうか。悩みや痛みも含めて、私たちはこの世から逃れられないではないか。

しかし私たちはその中でこそ、イエス様の御声を聞きます。「貧しさの中を生きる者よ、あなたがたのことをこそ、神さまは見て下さっている」。イエス様がおっしゃる貧しさとは、経済的な貧しさだけではなくこの世の現実そのものを指します。イエス様は、そのような状況にあるひとりひとりに目を留めて、「あなたがたにこそ祝福がある」と語られる…イエスさまはその恵みを宣言するために神様のところからやってきてくださいました。現実を生きるあなたにこそ、主は目を注いでくださっている。イエス様はそう、私たちに語ってくださるのです。

 私たちの生きる道はいつも喜びに満ちているわけではなく、不安や悲しみ、苦労も多い。しかし、それらを超えて生き抜いたいのちを、向こう側で確かに迎えてくださるイエス様がおられます。イエス様の姿から、また、先に召された兄弟姉妹の信仰から、わたしたちは、わたしたちのいのちの先に待っている、神様の国を仰ぎ見る。そこに希望を持って歩んでいきたいと思うのです。