礼拝説教
/2025年10月18日、19日 聖霊降臨後第19主日説教要旨
「祈り、神との格闘」
創世記32:23-32、Ⅱテモテ3:14-4:5、ルカ18:1-8
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(ルカ18:1)とあるとおり、今日の聖書は祈りについてイエス様が私たちに教えてくださっているところです。
イエス様があえてここで「気を落とさず、絶えず祈らなければならない」と言われているのは、私たちにとって「気を落とさずに祈る」ということがいかに大変なことであるかを示していると思います。本当に神様は祈りを聞いてくださっているのか、そう思えるような現実がこの世界には横たわっているからです。
イエス様が語られたたとえ話の中に「やもめ」(寡婦)が登場します。聖書ではこの「やもめ」を、みなしごやよそ者と並んで、社会で保護されなければならない対象として挙げています(申命記10:18等)。わざわざ記さなければいけないくらい、当時の社会において寡婦の立場は弱く、そして裁判等においても、彼女のような立場の女性は、ないがしろにされることが多かったようです。
イエス様が「神様への祈り」のたとえ話として今日、このやもめと不正な裁判官を例に挙げていることは不思議に思えるかもしれません。この裁判官は、この女性のためではなく、「ひどい目に遭わされたくないから」という自己保身的な理由から仕方なく彼女のために裁判を行います。彼は「あいつの依頼を断るとやっかいなことになりそうだ」と考えます。それより裁判をしてやった方がマシなようだ、とこの「人を人とも思わない裁判官」に思わされるほど彼女の訴えは強く、そして自分の社会的な立場などものともしない、大胆なものだったのです。
この裁判官は不誠実な人間です。その不誠実さは、私たちの中にも見られるもでしょう。しかし私たちだって、「ひどい目にあわされる」ということになれば相手の要求を聞く。不実な人間だってそうなのですから、「まして」私たちを愛してくださる神様が聞いて下さらないはずがない。イエス様のおっしゃる神様は、私たちを高い所からただ見ておられる方ではなく、私たちと向き合ってくださる方だというのです。自分がどんなに弱く、小さい存在に見えても、しかしそれでも神様に求めてもいい。神の愛に信頼して、祈り求める者でありたいのです。