2025年10月11日「癒しと救い」西川晶子牧師

礼拝説教

/2025年10月11日、12日  聖霊降臨後第18主日説教要旨

「癒しと救い」

列王記下5:1-3&7-15b、Ⅱテモテ2:8-15、ルカ
17:11-19
聖書の中で「重い皮膚病」と訳されている言葉はヘブライ語で「ツァ
ーラアト」という、ある種の特徴を持った皮膚病の総称です。この病は
後の時代に「ハンセン病」と混同されてしまった歴史がありますが、ツ
ァーラアトは少なくとも現代の特定の病気を指すものではなく、聖書協
会共同訳では、「聖書の律法で定められた病」という意味で、「規定の
病」と翻訳されています。
 古代社会において、この病にかかった人の運命は過酷を極めるもの
でした。この病に対しては徹底的な隔離政策がとられます。おそらくそ
れは共同体の中での伝染を警戒してのものだったと考えられるのですが
、やがてそれが宗教的な「けがれ」と結びつきます。この病気にかかっ
た人は、肉体的、精神的な苦しみに加えて、共同体や家族から引き離さ
れるという社会的な苦しみに加えて、救いから遠い者として扱われる宗
教的な苦しみを負わされました。その苦しみの中から「憐れんでくださ
い」と叫ぶ人たちの声を聞いて、イエス様はその病を癒された。それが
、今日の福音書の物語です。
この物語の中で、10人の人が癒され、そのうち9人は喜んで祭司の元へ
走りました。しかしその中の一人は自分の祭司の所に行かず、戻ってき
て、イエス様にひれ伏した。そこに主が「救い」を宣言されたというの
です。
この人は、当時のユダヤ社会において救いから遠いとされていたサマ
リア人でした。言ってみればこのサマリア人は、病、そしてサマリア人
であるということによって、いわゆる「正当な」聖書の民から見れば二
重三重にも神さまから遠い存在だった。しかし、たとえ人の目には大き
な隔てがあったとしても、主の恵みはその、すべてを越えて苦しみの中
にある者に届く。ただ病をいやされた事だけではなく、それこそが彼が
出会った「救い」ではなかったかと思います。
私たちもまた礼拝をとおしてこの救いの恵みと出会います。この時こ
の人と出会われた主、その方によって示された恵みは、たとえ妨げる物
があったとしても、それを越えて、主の憐れみを必要とするところに必
ず届く。そのことを信じながら歩み続けることができれば、と思います