私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
- 復活の日、弟子たちが抱えていた思い
先週のイースターを経て、私たちは今朝も礼拝に招かれています。今朝の福音書日課は、主
が十字架につけられた、その出来事に直面し、扉を閉め、部屋に閉じこもる弟子たちの姿が記さ
れています。私たちは弟子たちの姿を、どう見つめるでしょうか。私たちは、弟子たちの思いが
、そしてトマスの思い、心がよく分かるのではないかと思うのです。ガリラヤ湖のほとりで網を
捨て、信じて付き従ってきたイエスさまが、私について来いと言ってくれたイエスさまが、二日
前、十字架に掛けられて殺されてしまったのです。これほど大きな絶望、不安があるでしょうか
。そしてほかの弟子たちには現れたのに、自分の前には姿を現してくださらなかったトマスの失
望や疑い。これをトマスの弱さと断じることができるでしょうか。今朝の福音書は、そんな弟子
たちや、トマス、そして私たちに語り掛けます。「あなたがたに平和があるように。」「見ない
のに信じる人は、幸いである。」
- あなたがたに平和があるように
イエスさまのこれらの言葉を、私たちはどう受け止めるでしょうか。そして2000年前の弟
子たちはどう受け止めたでしょうか。十字架にかけられ、死んでしまったイエスさまが今目の前
にいる。本来ならば、弟子たちの方から「大丈夫ですか」「何があったんですか」「信じきれず
に、すみませんでした」そう言葉を掛けても不思議じゃない。しかしこの日、言葉をかけたのは
イエスさまからでした。「あなたがたに平和があるように」この言葉は、弟子たちの行動や置か
れた状況には似つかわしくありません。もっと似合う言葉があるように思えます。信じきれなか
った弟子たちに「どうして信じなかったんだ、私は復活するとあれほど言っておいただろう」と
言うかも知れない。あなたのためなら命を捨てるとさえ言ったペトロには、「お前は決して逃げ
出さないと言っていたではないか」と言うかも知れない。あるいはこれが勧善懲悪の物語だった
ならば、「さぁ、こんな暗いところから出て、私を理解せず、十字架に掛けた人々を懲らしめに
いこう」と言うかも知れない。弟子たちの状況を考えるならば、これらの言葉の方が自然なのか
もしれません。だから、今日共に聞いたイエスさまの言葉は、なかなかピンとこないのです。「
あなたがたに平和があるように」これは、元々の言葉を忠実に訳すならば、「あなたがたには、(
既に)平和がある」という言葉です。どこに平和があるのでしょうか。閉ざされた、真っ暗な部屋
のどこに、イエスさまが語られるような平和があるのでしょうか。イエスさまを信じきれず、人
々を恐れ閉じこもる弟子たちのどこに、平和があるのでしょうか。平和はないのです。どこにも
ない。そこにあるのは、信じきれず、逃げ出した弟子たちの姿、噓を言うなと罵り合う弟子たち
の姿だけでした。それが、イエスさまが復活された夜の出来事であったと聖書は伝えます。
- イエスさまの語られる平和
逃げ出したことを責められる世界。信じきれなかったことを叱られる世界。それが私たちの生
きている世界で当たり前かも知れません。しかしイエスさまは全く逆のことを言います。「あな
たがたに平和があるように。」十字架という、およそ平和とは正反対の場所にたった一人で歩ん
で行かれたイエスさまは、そこから帰ってきて言うのです。「平和なら、あるじゃないか。」弟
子たちの側には平和と呼べる理由も、根拠も何もないけれど、イエスさまは平然と「平和はある
」と言ってのけるのです。イエスさまは、十字架にかけられる直前、14章において、こう言っ
ています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世
が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」イエスさまの語っておられる
平和とは、この世の与える仕方ではないのです。イエス様ご自身が与えてくださる平和、イエス
さま印の平和と言ってもいいでしょう。このイエスさま印の平和は、私たちがイメージする平和
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、人々の間に争いのない状態、不安や心配のない状態、神様の言葉を受け入れ、感謝することの
できる心の状態、様々あると思いますけれど、その根底にある平和です。何故なら、私たちにと
って最も平和でない状態、罪に縛られて生きる状態からイエスさまは私たちを解放してくださっ
たからです。イエスさまは十字架に於いて、私たち人間の罪を贖ってくださいました。私たちに
とって自分ではどうすることもできない、贖うこともできない罪を、イエスさまが一身に背負い
贖ってくださいました。だからイエスさまは、気落ちし、閉じこもる弟子たちに、言うのです
。「平和がある」と。罪によって神さまから離れてゆく、ただただ死に向かって歩んでゆく私た
ちに、神さまとの和解、神さまの平和を語るのです。それがイエスさまの「あなたがたに平和が
あるように」という言葉です。だから、イエスさまは、気落ちし、真っ暗な部屋に閉じこもる弟
子たちに平然と言うのです。「平和ならあるじゃないか、罪は滅ぼされた。」弟子たちの佇む暗
闇に差し込んだ一筋の光、それがこの復活の夜、弟子たちにとってのイースターの出来事でした
。
- 見ないのに信じる人は幸い
さて、このイースターの立ち会えなかった弟子がいました。トマスです。トマスは怒ります
。トマスだけがクローズアップされているので、トマスには嫌疑家というあだ名がついているよ
うです。そんなトマスに、イエスさまは「見ないのに信じる者は幸い」と語っておられるのです
が、この言葉はトマスだけでなく、私たちにも語られている言葉だと思います。私たちも復活さ
れたイエスさまの姿を直接見ることができません。その意味で、私たちみなが「見ない者」あり
、「信じる者」です。その意味で、私たちは直接目で見て信じた弟子たちより幸いなのかも知れ
ません。しかしこうも思うのです。イエスさまは、あなたの方が幸いだと、分け隔てなさるのだ
ろうか、と。そう考えると、こう思うようになりました。この日、復活されたイエスさまを直接
見た弟子たちも、目で見て信じた訳ではないのではないか。復活の朝、墓まで行ったマリアでさ
え、イエスさまをその目で見てもわからなかったと聖書は伝えます。「後ろを振り向くと、イエ
スの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」イエスさまに
付き従い、十字架まで見届けたマリアでさえ、イエスさまに会っても分からなかったのです。で
すからトマスに掛けられた「見ないのに信じる人は、幸い」というイエスさまの言葉も、もっと
深い部分で語られている言葉なのではないかと思うのです。マリアはどうして、目の前にいるの
がイエスさまだと気づいたのでしょうか。それは、イエスさまの方から「マリア」と話しかけら
れたその時、気付くのです。弟子たちはどうだったでしょうか。「あなたがたに平和があるよう
に。」とイエスさまが語ってくださったから、目の前にいるのがイエスさまだと分かったのです
。そしてそれは、トマスに対しても同じです。「あなたがたに平和があるように。」この言葉が
トマスをイエスさまと出会わせたのです。その後の弟子も同様です。パウロでさえ、イエスさま
を直接見たことはないのです。しかし「サウル、サウル」というイエスさまの呼びかけが、パウ
ロとイエスさまとの出会いになりました。今日、私たちはイエスさまから「あなたがたに平和が
あるように」と呼びかけられています。一人ひとりの名前を呼び、私の特性の平和があると語っ
てくださっています。今日が、私たちとイエスさまの出会いの日です。今日から私たちの礼拝時
間が変わります。しかしイエスさまの呼びかけは、一週遅れでやってきたトマスにも語られたよ
うに、こうして主のみ前に集う私たちに絶えず語り掛けられているのではないでしょうか。「あ
なたがたに平和があるように。」「見ないのに信じる人は、幸いである。」復活の主が、今日、
私たちと出会ってくださる幸いに感謝いたします。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。