礼拝説教
イザヤ25:6~9、Ⅰコリント15:1~11、マルコ16:1~8
イースターおめでとうございます。この言葉はクリスマスおめでとうございますより、
わたしにとって身近でないように感じます。クリスマスもイースターも人間の出来事を越
えたものですが、イースターの方がより人間の出来事を越えているからかもしれません。
でも、イースターはキリスト教の信仰において最も大切な出来事です。今日はその内容を
しっかり心に受け取って、復活の命に生かされていきましょう。
パウロが福音という言葉を使い、その福音の内容を直接語っているのはパウロ文書の中
で2か所しかありません。一つはローマ書の1:2からのところともう一つは今日の日課と
して与えられたところです。今日の日課の箇所では福音のことをまず「生活のよりどころ
としている福音」と言っています。クリスチャンがこの世で生きていくときの福音は信仰
生活のよりどころであると言っているのです。そして福音の内容を「キリストが聖書に書
いてある通り私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り
三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。」と伝えています
。ここには大きく分ければ、十字架の死と復活という二つの要素があります。しかし細か
く見ると四つの要素があるのです。「わたしたちの罪のために死なれたこと」「葬られた
こと」「三日目に復活したこと」そして「弟子たちに現れたこと」です。私はずっと「葬
られた」のは死なれたことの真実性、確実性を示すものとしてみていてあまり注目してい
ませんでした。「現れた」ことも復活されたことの確実性を示すものと思って、あまり重
きを置いていませんでした。
でも最近気付いたのです。「葬られた」とは死の支配の中に入れられたこと、「現れた
」ことは復活の命に生かされるということを意味していると。だから重要な要素であると
気付いたのです。葬りは当然墓と関係しています。その世界は閉じられた、死が支配して
いる世界、死に支配されている世界です。アダムが罪を犯して人類は死の世界に入れられ
たと、キリスト教は理解していますが、これは霊的な墓の中、閉じられた死の世界の墓に
入れられたともいえるでしょう。確かにパウロは「葬られた」と独立して語っていますし
、私たちは使徒信条、ニケア信条においても独立してこの言葉を告白しています。このこ
とに気付いたとき、ずっと疑問であったこと、なぜ福音書は復活の出来事を4福音書とも
墓が空っぽであったことで伝えるのか、そのことが解決しました。すなわち、復活は死の
支配の状態から解放されたことを示しているのだと。
三日目の早朝、女たちはイエス様がおさめられている墓に向かいます。すなわち死が支
配しているところに向かうのです。女たちは「だれが石を転がしてくれるのでしょうか」
と話しています。死の支配を閉じ込めている大きな石、彼女たちでは転がすことが出来な
い、象徴的に示されていて、これは人間の力では転がすことが出来ないことを意味してい
ると言えるでしょう。でも行って見ると大きな石は転がされていました。だれがしたので
しょう。当然神さまです。神様が死の支配の象徴の墓を閉じている石を転がされたのです
。死の支配の世界が開かれたのです。墓の中にイエス様の死体はありません。イエス様は
死の支配から解放されたことを示しています。復活は死の支配からの解放を示しており、
だから復活の出来事を墓が空っぽであったことで伝えているのでしょう。この死の支配か
らの解放は人類にとって根本的に重要なことです。だから今日の旧約聖書の日課もすべて
のものを包んでいる布を取り去り「死を永久に滅ぼしてくださる」と言っています。
イエス様は復活されたと墓の中にいたみ使いは女たちに伝えます。今日の日課でパウロ
が言っているように、また私たちが信仰告白しているようにイエス様は復活されたのです
。単に生き返ったではなく、永遠の命の体に復活されたのです。そして今日の福音書の日
課にはありませんが、パウロが証しているように、多くの弟子たちに現れたのです。復活
されたこと、永遠の命の体に復活されたことは、私たちにとって大きな喜びです。だから
今日お祝いするのです。それと同時に「現れた」ことも大切なこととして伝えられていま
す。これは何でしょうか。復活された命が弟子たち、すなわち私たちに関係を持ったので
す。これは葬られたことが死の支配の中に入れられたことの反対として、「現れた」こと
は命の支配の中に入れられたこと、真の命によって生きることへと入れられたことを示し
ていると思います。復活の命のイエス様が弟子たちに現れてくださったことは、復活の命
に生きるようにとされたことであると思います。また、復活の命を証しするようにと派遣
されることでもあると思います。
ガラテヤ書の2:19後半から20節に有名な言葉「わたしはキリストと共に十字架につけ
られています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生
きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしの
ために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」
キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって、そのキリストに結ばれて
、自分も十字架につけられて死んだ。すなわち自分の罪に死んで、死の支配から解放され
た。そしてキリストが復活されたことによって、復活の命に生きることが示され、キリス
トとの結びつきによって、自分もキリストの復活の命に生かされるものになった。すなわ
ち生きているのはもはや自分ではなく、復活の命のキリストが自分の中で生きていてくだ
さる。確かに今自分は肉において生きているけれど、信仰によって、キリストの復活の命
にあずかって生きているのだと言います。
信仰においてキリストに結ばれ、復活の命に生かされるものとされている。だからどん
なにキリストに結ばれて生かされることが大切かが分かります。イースターを迎えている
今日、また改めて、キリストに結ばれて生きることの素晴らしさ、大切さを覚えて、その
信仰の上に立って、この世の旅路を歩んでいきましょう。