2024年3月24日「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ50:4~9a、フィリピ2:5~11、マルコ15:1~39

 
 今日は受難主日として礼拝を守っていますが、今日の説教題を「エロイ、エロイ、レマ
、サバクタニ」としました。イエス様が十字架上で叫ばれた言葉です。ご存知のように日
本語では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。
悲痛な絶望的に聞こえる言葉です。
 イエス様は十字架上で7つの言葉を発せられたと福音書は伝えます。その中でこの「エ
ロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は私たちにはイエス様の発せられる言葉としては最も
分かりにくいものです。
 ご存知の方も多いと思いますが、十字架上での7つの言葉は、ルカ福音書に3つ、「父よ
、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と十字架上の一人
のものが御国で自分たちのことを思い出してくださいと言ったのに対して「はっきり言っ
ておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と息を引き取られる間際に「父よ、
わたしの霊を御手に委ねます」です。これらはわたしたちがイエス様に対して持っている
イメージによく合っているので分かりやすく、私たちを希望へと導いてくれるものです。
さすがだと思えるものです。ヨハネ福音書にも3つあります。十字架にかかられたとき、
母マリアも愛する弟子もそばにいたようです。母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子で
す。」そして弟子に「見なさい、あなたの母です」と死ぬ間際にも配慮と肉の関係を越え
た関係を示され、イエス様らしいと言えます。また、十字架上での死が近くなった時に「
渇く」と痛みを表わす言葉を言われ、そして死の前に「成し遂げられた」と言われました
。これらも比較的イエス様の言葉として分かりやすいものだと思います。しかし、マタイ
とマルコは同じ言葉を一つだけ言われたと示しています。「エリ、エリ」と「エロイ、エ
ロイ」の違いがありますが、これはアラム語とヘブライ語との違いがあるだけで同じ意味
です。日本語で言えば「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とい
う意味です。神様に対していつも忠実であったイエス様が、このように神様から捨てられ
たという絶望的な叫びは、私たちにはわかりにくいのではないかと思います。でもマルコ
もマタイもこの言葉だけを十字架上の言葉として伝えているのです。今日はこの言葉に注
目したいと思います。
 この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは後の人
々を戸惑わせました。だから、この言葉は詩編22編の最初の言葉なのですが、詩編は最初
は苦しみの叫びをあげても、終わりには神様への讃美をしています。この22編もそうです
。だからイエス様がこう叫ばれたのはこの詩編22編を知っておられたから、その最初の言
葉を言われただけで、この言葉を言われても、神様への信頼は変わっていないと多くの学
者は解釈しようとしました。でも神学的にどうのこうのと言ってこの言葉を薄めるのでは
なく、この言葉そのものを見てみたいと思います。
 今日の福音書の日課を見れば、15:1にありますが、最高法院全体が、すなわちユダヤ
教の指導者全員がイエス様を否定して、総督のピラトに差し出したのです。また、祭りの
たびごとに総督によって恩赦が与えられたようですが、ユダヤの人々は指導者たちの導き
はあったとはいえ、犯罪人のバラバに恩赦を与え、イエス様を十字架につけろと何度も叫
びました。人々からも捨てられます。あのイエス様はユダヤ社会全体から捨てられたので
す。総督のピラトはイエス様に罪はないと感じていても、人々におもねいて、イエス様を
十字架にかける決断をします。ここにも正義ではなく、暗い思いがあり、それによってイ
エス様

は十字架にかけられるのです。そして力を持つ軍人全員が集められ、その前で、紫の衣を
着せられ、茨の冠をかぶせられ、拝んだり唾をかけたりして侮辱されます。そして刑場に
向かいます。当時十字架の横木を刑場まで受刑者が運んでいくのが慣わしでしたが、シモ
ンというほかの人が途中から担いでいきます。これもイエス様がどんなに弱っておられた
かを示しています。刑場について、十字架にかけられます。この刑罰に対して後の学者が
このように言っています。「十字架の死は、キケロによれば、最も残酷で恐ろしい死刑で
ある。処刑されるものが同情される場合には、脛骨を折られたり、脇を槍で突いたりして
、苦痛を短くしてやる。そうではない場合は、不幸な処刑者は何時間も、あるいはしばし
ば何日間も苦痛にさらされ十字架に張り付けられていなければならない。挙句にようやく
衰弱、窒息、うっ血、心臓破裂、虚脱、あるいは何らかのショックによって死ぬ。だがそ
の間ずっと、十字架にかけられた者は、己に襲い来る猛獣、猛禽に全く無力にさらされ続
ける。己の傷口にとまる蠅やアブを避けることはできない。要するに、十字架は古代の裁
判制度が発明したこの上もなく極悪非道な事柄である。」このような十字架にイエス様は
かけられるのです。両手両足を釘づけにされ、十字架が立てられた時、自分の体重をそれ
で支えなければなりません。朝の9時につけられ、十字架上にさらされます。ユダヤ人た
ちは十字架の前に来て、自分を救ってみろと悪態をつきます。ユダヤ人の指導者たちもそ
うです。また一緒に十字架につけられた人たちもそうです。イエス様が荒れ野で空腹のと
き、神の子なら石をパンに変えておなかを満たすようにサタンが誘惑したのと同じ誘惑で
す。神の子なら自分を救えと。しかしイエス様はその苦しみの歩みの中にとどまられます
。このような苦しみにあわれ続けられたのです。昼の12時になりました。全地が暗闇に包
まれて3時まで続いたとあります。普通信仰者は苦しみにあっても、必ず神様が助けてく
ださるとの信仰の上に立っています。しかし暗闇が3時間続くのです。暗闇の支配の中に
置かれているのです。イエス様は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったので
すか」と叫ばれます。そして息を引き取られたのです。この叫びは何でしょうか。神様を
否定されたのでしょうか。全く違います。この叫びこそイエス様の本質を示しています。
イエス様はわたしたちと同じ人間であり続けられたのです。それゆえ、全く、確かに、刑
罰を、この叫びは、私たちの代わりに刑罰を受けられ死なれたことを示しています。この
叫びは、刑罰を受け取られ死なれたことを示しているのです。
 大切なことはこの苦しみの極みの死を、自分のためのものであると受け取ることです。
客観的に人類のものであると受け取るのではなく、自分のためわたしのためであると受け
取ることです。その時、私たちは自分の問題に気付き、また罪の贖い、そして解放を受け
取るのです。あの苦しみの叫びの死が自分のものであったことを知り、その前に立つこと
が大切なのです。ペトロがイエス様に従っているとの誇りの中にある時はまだ全き解放の
域に達しませんでした。しかし3度イエス様を知らないと言って、逃げた経験をして、そ
の後、十字架の死が自分のためのものであることを知ることが出来たとき、本当に変わら
され、自由になって、宣教へと歩むようになったように、このイエス様の叫びが、この「
わたし」のためのものであることに出会ったとき、私たちは本当に変わらされ、新しくさ
れるのです。