2024年月3月10日「一寸先は光」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書 3章14節から21節

説教題:「一寸先は光」

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

  1. 一寸先は…?

一寸とは約3センチです。3センチ先に手のひらを広げたならば、そのあまりの近さに息苦しさを感じるかも知れません。目と鼻の先とはまさにこのことです。さて、一寸先は…と聞くと、皆さんが思い浮かべるのは『闇』でありましょう。一寸先は闇、それは注意を促す諺です。江戸時代に生まれたものだそうで、暗い夜道を光を持たずに歩いたならば、一寸先の状況さえ分からないことから来ているそうです。そこから転じて、今うまくいっていると思っていても、この先にどんなことが待っているかわからないから、注意をしなさいという意味の諺が生まれたのだそうです。その意味で、今朝、『一寸先は光』と題したのは、私たちは今置かれている状況がどうであれ、それは上手くいっていようと、あまり調子の良くない時であろうと、目の前には光があることを確信して歩んでいきたいのです。一寸先には光がある、言うまでもなく神さまの光があることを、私たちは共に聞き、信じて歩んでゆきたいのです。更に付け加えるならば、光とはイエス・キリストであることを私たちはみ言葉を通して聞くのです。

しかし今朝の福音書日課を読む限り、光を知っている私たちは救われるけれども、光を知らない人たち、光を信じようとしない人たちは裁かれる、もう既に裁かれているとイエスさまは言います。これはどういうことでしょうか。キリスト者は自分たちが救われていればそれで良いのでしょうか。そんなことはありません。これから信じるようになれば良いのです。今朝のみ言葉は今の私たちに語られており、過去の私たちにも語られており、未来の私たちにも語られている。聞き続けなければならないみ言葉だということです。

  1. 夜道をゆく

今朝のみ言葉は、ニコデモというユダヤ人の議員との対話の後半に当たります。ニコデモはある夜、イエスさまのもとを訪ねます。そしてこう言うのです。『先生、私はあなたが神様から遣わされた者であることを知っています。』ニコデモがどういう人物であったかは分かりません。ニコデモが「わたしども」と言うように、議員の中にもイエスさまを認める、或いは信じる者たちがいたのかも知れません。しかしそのことを明らかにしてしまっては、議員としての自分の立場が危うくなってしまいます。何故なら、今朝は先週のみ言葉の続きだからです。先週、イエスさまが神殿の境内をひっくり返した場面を私たちは聞きました。その直後ですから、ニコデモはイエスさまの姿に感銘を受けたのでしょう。しかしそのことでイエスさまは要注意人物となってしまったでしょうから、イエスさまと繋がっていることが明るみに出ないように、真っ暗な夜道をニコデモは歩いて来たのではないでしょうか。ですから、この時のニコデモは、まだ光ではなく闇を好むような、闇に属する人物だったのだと聖書は語っているのではないでしょうか。

私たちは今、四旬節を過ごしています。四旬節の時期、洗礼を受けるための準備をする習わしがあります。それは言うなれば、イエスさまに問う期間、光を目指して歩いてゆく期間と言ってもいいかも知れません。今朝のニコデモの姿は、そのことに重なるのではないでしょうか。光の訪れを感じ取りつつ、本当にこの光に委ねていいのか問うニコデモは過去の私たちでもあり、そんなニコデモをイエスさまは迎え入れたのです。

  1. 青銅の蛇、イエスさまの十字架

  イエスさまは訪ねてきたニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と語ります。旧約聖書に精通したニコデモにはよく分かる譬えです。今朝の第一日課、民数記21章にそのことが記されていました。エジプトから導き出された民が約束の地を目指す最中、旅路の過酷さから神さまに不平不満を言い出します。神さまはその時、信じない民に罰として「炎の蛇」を送ります。多くの民が蛇に噛まれ命を落としました。イスラエルの民は自分たちの不信仰を許してくださいと悔い改めるのですが、その時、神さまはモーセに青銅の蛇を作らせました。そして人々がその蛇を見上げると、炎の蛇に噛まれても命を失うことはなくなりました。イエスさまはどうしてこのこととご自分を重ねてお話されたのでしょうか。モーセが作った青銅の蛇は、人の手による、作り物の蛇です。しかし自分たちの創造主であり、エジプトから導き出してくださった神さまへの信仰の目を通してその青銅の蛇を見るならば、命を得ることができたのです。大切なのは青銅の蛇ではなく、信仰の目です。イエスさまの十字架も、この青銅の蛇と重なります。イエスさまが十字架に掛けられ殺されてしまった時、人々はその光景を敗北、死として見つめました。しかしイエスさまの十字架が私たちの罪を贖うためのものであったことを知り、イエスさまの掛けられた十字架に思いを寄せるならば、それは敗北の象徴ではなく、私たちの罪を贖う救いの十字架だということが分かるようになります。モーセが作った青銅の蛇も、それ自体は動くこともないし、力もありません。しかしそこに神さまの言葉、神さまの果たそうとする約束を見出すならば、それは命を得る青銅の蛇となるのです。イエスさまはニコデモに、青銅の蛇のことを思い出させると共に、とても大切なことを言っておられます。青銅の蛇はイスラエルの民を死から命へと導くものでした。イエスさまの十字架も、私たちの罪を贖うということだけではありませんでした。死から復活し、永遠の命を私たちに約束してくださったのです。

  1. 一寸先には光がある

私たちの命は、いつか終わりがやってきます。その時を私たちは人の死と表現しますが、本日の第二日課を読むならば、生と死の別の視点が見えてきます。エフェソの信徒への手紙2章には、私たちは罪の故にもう既に死んでいると言います。これは物凄い言葉です。しかしこの言葉も、イエスさまが贖ってくださった私たちの罪について考えるならば、至極自然の言葉です。アダムとイブ以降、私たちには罪が宿るようになりました。キリスト教では罪を神さまから離れていこうとする力だと考えます。逆に言うならば、罪のない状態とは神さまに近づいてゆく状態、共にいる状態であると言えます。そして罪の結果、私たちは死すべき存在となってしまったわけです。神さまはそのような罪を背負う私たち人間を救うためにイエスさまをこの世界にお送りくださいました。そしてイエスさまが十字架上で罪を贖ってくださったことが分かると、私たちは神さまへの感謝と共に生きてゆくことになります。それでも罪がなくなったわけではありません。私たちはこの世を生きる限り、罪と共に在ります。しかし同時に、罪の贖いが果たされたことを信じて生きてゆくことができるのです。その意味で、一番最初の話に戻りますが、ニコデモの姿は教会と出会う前の私たちであり、今の私たちであり、日々罪をおかし、悔い改めて生きる私たちの姿だと言ったのです。真っ暗闇を歩いて来たニコデモ。その手元には明かりがあったでしょうけれど、もっと大きな、唯一の光のもとへ、ニコデモは確かにたどり着いたのです。余談ですがその後ニコデモは、イエスさまを信じて生きるようになったでしょう。すぐに、ではありません。数年経ってから、イエスさまが十字架に掛けられるその時です。十字架に掛けられたイエスさまを引き取りに来たのはこの日、人目を避けて暗闇を歩いたニコデモでした。それはまさに、「真理を行う者は光の方に来る」とイエスさまが言われる通りです。一寸先さえ見通せないこの世界を生きる私たちです。しかし、一寸先には光があることを信じて生きてゆきましょう。罪人である私たちを、裁かれるべき私たちを、救おうとされるイエスさまの十字架への道行に感謝して、今週も歩みを始めてゆきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。