2024年3月3日「十字架の力は神の力」藤井邦夫牧師

礼拝説教

出エジプト20:1~17、Ⅰコリント1:18~25、ヨハネ2:13~20

 
 宇部教会は1953年3月1日に日曜礼拝が開始されました。この日を宇部教会の創立記念
日としています。ですから今日は創立記念日の礼拝でもあります。この3月のはじめは大
体、四旬節にあたっていると思います。イエス様の十字架の歩みを覚える季節にこの教会
が始まったということは、とても意味のあることだと思います。キリスト教の中心的出来
事を覚えるときにこの教会の歩みは始まったのです。ですからこの教会はイエスさまの十
字架の出来事の上に立っていると言っていいでしょう。
 今日の説教題を「十字架は神の力」としました。正確には「十字架の言葉は神の力」と
したほうが良いかもしれません。今日与えられている使徒書の日課からとった言葉です。
十字架の言葉とはイエス様の十字架の出来事を福音として宣教することです。むろん十字
架の言葉は、十字架の死を受け取られたイエス様を神様は復活させられたということをも
含んでいます。しかし、イエス様が死の歩みを歩まれたこと、しかも最も残酷な十字架の
死を受け取られたことは、十字架の言葉の大切な、中心的な要素です。
 今日の福音書の日課はイエス様が激しさを顕された個所です。一般に宮清めと呼ばれて
いる出来事です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では十字架の歩みをされた、すなわ
ち福音書の終わりの方にありますが、ヨハネ福音書ではイエス様の宣教のはじめの部分に
置かれています。過ぎ越しの祭りが近づいたとき、イエス様はエルサレムに行かれたとあ
ります。神殿の境内に入ると、そこで、牛や羊や鳩を売っている人たちや、座って両替を
している人たちが目に入りました。イエス様は縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追
い出し、両崖人の金をまき散らしたとあります。その場面を想像すると、とんでもないぐ
らいの激しさを感じます。わたしたちが教会でバザーをしていて、そこにある人が来て、
売り場をひっくり返し始めたと想像したらどうでしょうか。驚くほどの激しさです。
 旧約聖書の箇所は十戒が与えられた箇所です。そこではまず神様がイスラエルの民を奴
隷の地から助け出された方であることが示され、そして神様を大切にすること、隣人を大
切にすることでイスラエルの民の歩むべき道を示されたのです。まことに神さまのみを神
とすること、自分のために神様を利用しないこと、また日常の生活において神様との具体
的な関係を持って歩むことが示され、隣人の命や財産や名誉を傷つけず隣人を大切にする
ことが示されました。心からまことにその歩みをすることが示されました。
 イエス様が神殿で見られた光景は、一見信仰生活を便利にするものではあったのです。
過ぎ越し祭には遠くから色々な人たちが来ます。犠牲をささげることや、神殿に納めるお
金は決まった通貨でしたから、世俗のお金を両替することは便利なことでした。でもイエ
ス様はそこに、神さまを大切にすることのまことの姿ではなく、形骸化した姿、またそれ
を利用してお金儲けをする姿を見られたのです。そこでこのような行動をとられ、商売の
家にするなと言われたのです。この出来事を見て、弟子たちは「あなたの家を思う熱意が
わたしを食い尽くす」という詩編の69:10の言葉を思い出しました。この言葉は嘆きの
詩である詩編の中の、神さまを思う熱意が自分を苦しみの中に投げ込むことを歌ったもの
です。この言葉と、あとのイエス様のユダヤ人との対話の神殿を壊すとか、三日で建て直
して見せるとかはイエス様の受難を示したものです。ヨハネ福音書は始めの方にすでに、
イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」と示したりして、イエス様の受難のこと
が暗示されているのです。そして確かにイエス様は十字架にかかられて死んでそして葬ら
れ、神様によって復活させられました。

 パウロはこのことを受けて、十字架の言葉は救われるものにとっては神の力だと言いま
す。奇跡をおこなったりして、神さまの力のしるしを現したりではなく、また知恵によっ
て救いを説明したりでなく、十字架こそ、苦しみを受け、命を取られる死刑の歩みこそ救
われるものにとっての神さまの力であると言います。死の後に神さまの力が働いて、復活
の命が与えられたのです。
 この箇所の前は誰に着くかの問題、コリントの教会の分裂が示された個所です。そこは
誰が偉いのかという問題であると言ってもいいかもしれません。そして今日の日課の後に
、コリントの教会の人たちは、知恵のある者でも、能力のある者でも、家柄の良いもの、
それらのものが多かったわけではない。むしろ世の無学なもの、世の無力なもの、また身
分の卑しいものを選ばれたと言います。この言葉はコリントの人たちが自分たちのことを
顧みたときうなずけるものであったでしょう。さらにパウロ自身についても、コリントの
教会に行ったとき、衰弱しており、恐れに取りつかれ、ひどく不安であったと述べて、自
分が弱い状態であったと述べています。神様の御心を伝えるために優れた言葉も知恵も用
いなかったと言い、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知
るまいと心に決めていたと語っています。その真ん中に十字架の言葉は救われるものにと
って神の力だと宣言しているのです。
 イエス様自身、十字架の道を歩まれました。まさに自分を捨て、自分の十字架を背負っ
て、更に福音のために命を失う歩みをされたのです。それが十字架の歩みです。
 私たちは誰も絶対的な正しさの中にいる者はいないでしょう。肉体的にも心においても
、不安や苦しみを抱えているでしょう。その歩みにおいて、イエス様の十字架への歩みは
、共に歩む時、わたしたちを救いに導く大きな神の力となるのです。この受難節の間、イ
エス様の苦難の十字架への歩みと共にいましょう。わたしたちの中にある苦しみや迷いか
ら逃げるのでなく、十字架の歩みをされたイエス様に一緒にいてもらって歩みましょう。
その時私たちを救いへと導く神の力となるでしょう。