2024年2月25日「十字架を受け取られるイエス」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記17:1~7、15~16、ローマ4:13~25、マルコ8:31~38

 
 四旬節第2主日となりました。今日与えられている福音書の日課は第1回目の受難と復活
の予告とそれに伴うペトロの反応、さらに人々にイエス様に従いたい者は自分を捨てるこ
と、自分の命をイエス様や福音のために失う者はそれを得ると言われた個所です。
 私は今は時間があるので、月曜日から次の日曜日の日課を読み、そして毎日そこを繰り
返して読んで、内容を調べ、黙想して金曜日に文章に仕上げるようにしています。何回か
読み、黙想しているうちに、3つの聖書の箇所から、その日に伝えたいことはこうではな
いかということが与えられ、そしてまとめています。しかし、今回そこで言っていること
はわかるのですが、自分のこととして受け取ったり、人々に伝えるためにまとめることが
非常に困難に感じました。若いときはよくあったのですが、最近としては珍しいことです
。それはイエス様の受難を受け取ることもそうですが、自分を捨てること、イエス様のた
めに命を失うこと。これを何だろうと考えるときに非常にむつかしさを感じたのです。
 イエス様はペトロがイエス様のことを「あなたは、メシアです」と信仰告白した後に第
1回目の受難の死と復活の予告をされました。後の反応から見て、ペトロには復活のこと
は頭に入らず受難の死だけが入っていたでしょう。メシアと思っていた人が殺されるとは
とんでもないとペトロは思い、わきにイエス様をお連れしていさめます。それに対してイ
エス様はペトロの言葉をサタンの言葉としてしかりつけ、そしてさらに群衆や弟子に向か
ってイエス様に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うよう
に言われました。これはよく重荷を負ってと理解されますが、当時のイメージとしては、
死刑の判決を受けたものが刑場まで十字架の横木を担いでいくことそのことを示していま
した。そしてさらに自分の命を救いたい者はそれを失うが、イエス様のため、また福音の
ために命を失う者はそれを救うと言われました。
自分を捨てること、イエス様のために命を失うこと、これは何なのか、自分自身に帰り
見て、具体的な出来事の中ではよくわからないのです。ですから説教としてまとめること
が非常に困難なのです。でも無理はないとも思いました。この予告を3回もされたイエス
様は、捕らえられる前にゲッセマネで祈られたとき、激しい祈りをされました。出来たら
この杯を取り去ってくださいと。さらに苦しいとまでも言われたのです。そして十字架上
では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです

ペトロたちはどうでしょうか。このイエス様の言葉をよく理解したでしょうか。そこに
生きたでしょうか。先ほど言いましたようにイエス様は3回受難と復活の予告をされまし
た。その時弟子たちはどうかと言えば戸惑っているだけではなく自分たちの関心ごとはイ
エス様の言葉とは正反対の自分たちのことでした。そしてイエス様について行くと誓った
弟子たちはイエス様が捕まえられた時、逃げてしまい、ペトロなどは3回もイエス様のこ
とを知らないと言ったのです。ですから、このイエス様の十字架の出来事、更には自分を
捨てること、イエス様のために命を失うということが、自然の中にいる私たちにはどんな
に分かりにくいか、従いにくいかが分かります。
ではどうでしょうか。わたしたちには希望はないのでしょうか。そうではないと思いま
す。新約聖書は良い訪れ福音を伝えているのです。神様は十字架にかかり死なれ、葬られ
たイエス様を復活させられました。イエス様は苦しみの中にも神様の御心に従われ、十字
架上での苦しい死を受け取られたのです。そして神様はこのイエス様を復活させられまし

た。ペトロや弟子たちはどうであったでしょうか。イエス様の復活に出会い変わらされ、
聖霊を受けて力強く派遣され、殉教の死を受け取って行ったのです。あの、イエス様の予
告に対して、理解できずにいて、むしろ誰が一番偉いかと議論していた弟子たち、そして
イエス様が捕らえられた時、逃げて行った弟子たちは、復活の主に出会って変わらされた
のです。そしていろいろな困難な歩みがありながらも、イエス様の福音を告げ知らせ、殉
教の死を受け取って行ったのです。まさにイエス様が言われたようにイエス様のため、福
音のために自分の命を失ったのです。
今日に使徒書のローマ書の箇所は信仰の大切さを強調しながら、アブラハムは神は約束
したことを実現される力を、お持ちの方だと確信していたと言い、それはアブラハムだけ
でなく今の私たちにも通じるものであると言います。そして終わりに「わたしたちの主イ
エスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは
、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたの
です。」と言います。わたしたちの信仰の歩みも、イエス様の十字架の死のまことの意味
、そして私たちが十字架を背負ってイエス様に従うこと、またイエス様のために自分の命
を失うこと、それが具体的にはどんなことであるかが、すぐに分かるわけではないでしょ
う。ペトロたちが復活の主に出会ったときに理解できたように、わたしたちもイエス様が
復活されたことを受け取る信仰が与えられた時に見えてくることではないかと思えます。
今日のパウロの言葉の中で、違うのではないかというところがあります。19節の終わりに
「その信仰が弱まりませんでした」と言っています。確かにイサクをささげなさいと言わ
れたときのアブラハムの信仰はこのようになっていたかもしれません。しかしアブラハム
の子孫が増えること、祝福の基となるという神さまの約束を信じる信仰はずっと強く保た
れていたわけではありません。旧約聖書を見れば何回ももうあり得ないと感じること、希
望を失うことがあったのです。そのたびに神様はアブラハムに働きかけて、その信仰を強
められたのです。わたしたちがイエス様の十字架の意味が分かること、また私たちの歩み
の中の困難なことが、自分の十字架を負ってイエス様に従うことであることや、イエス様
のために自分の命を失うことであることはすぐに分かるわけではないでしょう。神様の光
に何らかの形で照らされるときに、神様の約束を信じる信仰が回復されたり強められたり
し、それぞれの意味もまた理解できるようになるのでしょう。イエス様という光に照らさ
れて歩んでいきましょう。