2024年2月18日「洗礼と誘惑」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記9:8~17、Ⅰペトロ3:18~22、マルコⅠ:9~15

 
 今日は四旬節第1主日です。また受難節とも言います。四旬は40を表わしますが、先
週の水曜日から日曜日を除いての40日の期間を現し、イエス様の受難を覚える時です。そ
してその最初の日曜日に与えられたのはイエス様が荒れ野で試みにあわれたということで
す。ですから今日のテーマは誘惑、試みです。イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を
受けられ、公の活動に派遣される前に、荒れ野での40日間、試みにあわれました。しかも
それは霊によって荒れ野に送り出されたのです。ということはこの出来事は神様の御心で
あったことが分かります。荒れ野は当時悪霊の働く場であったと考えられていました。だ
からイエス様は40日間悪霊の攻撃を受けられたことを示しています。
 この出来事に関してマルコ福音書は他のマタイやルカと違った特徴をもっています。そ
れはマタイやルカ福音書は試みの内容を伝えて、どのような試みがあるかに関心を寄せて
いるのですが、マルコ福音書はそのことに関心を寄せていません。日本語の聖書でも4行
と短くこの出来事を伝えていますが、そこにはある明確なメッセージがあります。それは
イエス様は悪霊に勝利されているということです。悪霊に支配されてはおらず、悪霊に勝
利された方としてそこに描かれています。これはイエス様はどんな方かというテーマの大
きな一つのことです。
 
 マルコ福音書はイエス様が洗礼を受けられた後、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に
送り出した」と伝えます。“霊”は聖霊のことですから荒れ野に送り出したのは神様のみ旨
であったことが分かります。そして40日間サタンから誘惑を受けたと伝え、誘惑の内容は
書いていません。そしてその後に「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えて
いた。」と記しています。創世記のはじめには、獣も人間の支配下にあることが示されて
おり、イザヤ書11章には終末の時は獣も幼子も共にいることが示されています。すなわち
この箇所で野獣がイエス様と一緒にいたことの表現は、終末的なイエス様が勝利の世界に
おられることを示しています。天使たちが仕えていたということも終末の時に天使たちが
人間に仕えるという考えが当時のユダヤ教の中にありました。だからこの短い表現の中に
は、イエス様がサタンの働きに勝利された方で、終末の救いの世界が開かれていることが
現わされています。だから次の箇所でイエス様が「神の国は近づいた」と福音の宣教を始
められているのです。
 この荒れ野での試みに対してイエス様が勝利されているということはわたしたちの信仰
生活においてとても大きな意味を持っています。今日の旧約聖書の日課はノアの箱舟の出
来事の後に、神様がもう二度と洪水で滅ぼすことをしないと約束され、その契約のしるし
としての虹が与えられたことが示されている個所です。人類があまりに悪に満ちているの
で、神様は人間を造ったことを悔いられて、人類を滅ぼすことを思い立たれました。しか
し、ノアとその家族8人を残りの者として、箱舟を造らせて助けられます。しかしその後
その家族以外を洪水で滅ぼされました。洪水が終わった後、ノアたちが舟から下りて祭壇
を築いて献げものをささげます。その香りをかいで神様は2度とこのような滅ぼし尽くす
洪水を起こさないと約束されます。その約束の契約のしるしとして虹を与えられたのです
。この契約のしるしとして虹を与えられたのが今日の旧約聖書の日課です。このときも興
味深いのですが、残ったノアたちがいい人間だから滅ぼさないと言われたのではありませ
ん。人間は幼いときから思い測ることは悪いのだと言われて、でも2度と滅ぼすことはし

ないと言われたのです。このことからも虹は神様の恵みからくる契約のしるしであること
が分かります。このことは今日の福音書の日課にも関係してきます。わたしたちは洗礼を
受けて、生きるとき、すぐ天国に行くのではありません。この世の生活に送り出されるの
です。その時私たちには神様から私たちを引き離そうとの働きが襲ってきます。しかし、
そこに、イエス様はあらゆる誘惑に勝利された。この荒れ野での出来事がわたしたちに、
サタンに支配されないというしるしとして私たちに与えられているのです。一人で相対す
ることは非常に困難なことですが、イエス様が共にいてくださり、しかもサタンの誘惑に
勝利されたイエス様が共にいてくださることはどんなに心強いことでしょう。
 私たちは洗礼を受けた後、イエス様が荒れ野に導かれたように、すぐに天国に行くわけ
ではありません。わたしたちは現実の世界へと派遣されるのです。現実の世界はどのよう
な世界でしょうか。先週聖書を読む会で読んだ中に、今の世界は勝ち組と負け組という言
われ方があり、その根本に成果主義、結果主義、業績主義が支配しているということがあ
りました。わたしの世代も、いい大学に入り、社会的に成功したいという思いに自然にな
っていました。しかし、洗礼を受けて信仰の世界に入ると、違った考えが示されます。わ
たしたちの存在自体を大切にされる神様の愛、この世の名誉や、この世での成功よりも、
神様の御心に生きることの大切さ、自分を中心に置いた生き方ではなく、神さまを中心に
置いた生き方、自分の希望を第1に考えるより、神様の御心を第一に聞くこと。この世の
価値観に生きていて、イエス様とかかわっていくとき、これらのことの大切さに気付かさ
れます。それと同時に気付いてもまたこの世の考えの方に誘われそうになることもありま
す。この世に生きているから当たり前とも言えますが、その時、イエス様が荒れ野での試
みの勝利された方であることに心を向ければ、イエス様のところにこそ真の生き方があり
、また救いの世界があることをおもわされます。イエス様の荒れ野でのサタンの試みに勝
利されたことは、わたしたちがこの世の荒波にもまれて生きるとき、真の命に生かされる
印であり、道しるべなのです。このイエス様の受難を覚える最初に、試みに克たれたイエ
ス様のことをしっかりと心にとめましょう。それはわたしたちが誘惑に勝つためのしるし
であることに心を止めましょう。