2024年2月4日「山上の変容」藤井邦夫牧師

礼拝説教

列王下2:1~12、Ⅱコリント4:3~6、マルコ9:2~9

 
 今日は本来総会礼拝の予定でしたが、中島先生が病気のため、急遽、中島先生と相談し
て、11日の日課で私が礼拝をすることになりました。11日は主の変容主日で、その週の
水曜日、14日から受難節が始まりますが、今回は4日を主の変容主日としますが、今週の
水曜日から受難節ではなく、次の水曜日14日から受難節に入ります。特別の事情なので、
どうぞご承知ください。
 今日の日課は福音書も、旧約聖書も、わたしたちが普段経験する自然な出来事ではなく
、それを越えた神様の出来事が示されます。そして使徒書はその出来事を受け取る力を神
様が与えてくださるということが述べられている個所です。逆に言えば、その出来事を受
け入れなさいと勧めている個所です。福音書は山の上に登られたとき、イエス様が栄光の
姿に変えられた山上の変容の出来事ですし、旧約聖書はエリヤが生きたまま天に上げられ
た出来事です。
 福音書を見てみましょう。今日の出来事はペトロがイエス様のことをメシアであると信
仰告白し、その後、イエス様が第1回目の受難と復活の予告をされ、それに対してペトロ
がイエス様をいさめたのに対し、イエス様がサタン引き下がれとしかられた出来事の後に
この山上の変容の出来事を伝えます。ですからこの出来事はイエス様の歩みが変化するこ
と、十字架への歩みをされることを示しているのです。
 イエス様はペトロとヤコブとヨハネだけを連れ高い山に登られました。すると山の上で
イエス様の姿が変わったと言います。服が真っ白に輝いたとあります。そしてモーセとエ
リヤが現れてイエス様と語り合います。モーセもエリヤも旧約聖書を代表する人物です。
モーセははるか昔に、約束の地カナンを仰ぎ見てピスガの頂でこの世を去った人物ですし
、エリヤは、これもはるか昔に生きたまま天に上げられた人物です。その二人が現れてイ
エス様と話をしているのです。ペトロは感激します。そしてこの栄光の姿をとどめたいと
仮小屋を3つ建てるというのです。ここには重要なメッセージがあります。それはペトロ
がこの山上の変容の出来事の意味を真に理解していないということです。イエス様の栄光
の姿に感激するだけで、そのまことの意味を理解していないということです。真の意味と
は十字架の歩みをされる初めの栄光の姿であるということです。弟子たちに教えられたよ
うに自分を捨て、十字架を背負って自ら歩まれるということです。
 福音書は3回受難と復活の予告をされたことが示されています。そしてマルコはこの3
回の予告のすぐ後に、この予告と並べて弟子たちの無理解、栄光を求めている姿を示して
います。ということは、イエス様の十字架への歩みは自然的には理解できないものである
ことを示しているでしょう。
 このようなペトロたちを前にして、天からの声がします。「これはわたしの愛する子、
これに聞け」との声です。ここで気付かれる方もあると思いますが、天からの声は福音書
の中に2回あります。イエス様が洗礼を受けられて活動へと歩みだされるときと、今日の
箇所です。そこにおいてマルコは重要な違いを示しています。洗礼を受けられた時は「あ
なたは」とあり、今回は「これは」とあります。ですから洗礼の時はイエス様に語り掛け
られたのであり、山上の変容の時はペトロたちに語り掛けられたものです。ですからこの
ことは今の私たちにも語り掛けられているものと理解してもいいと思います。ここにはこ
のような意味が隠されていると思います。確かにイエス様は神様の栄光に輝く方であるけ
れど、しかしそれだけではない。自分を捨てて十字架への歩みをする。この歩みは自然な

人間には理解できないものだけれど、これこそ真の神様の思いである。だからその歩みを
するイエス様を信じこれに聞きなさい。そのような意味を持っている言葉であると思いま
す。確かにイエス様はこの栄光にとどまられようとはされず、栄光を現した場所の山を下
りられて、十字架の歩みへと向かわれるのです。そのことを示すために今日の日課は山を
下りられるところまで与えられています。繰り返して強調しますが、イエス様の十字架の
歩みは、わたしたちの自然な思いでは、自分の栄光を求める自然な姿では理解できないも
のです。
 旧約聖書を見てみましょう。エリヤが天に上げられた箇所ですが、ここにはエリシャと
の絡みが出てきます。ここも興味あるメッセージを持っていると思います。話の背景には
エリシャはエリヤがもうすぐ天に召されるということを知っていたのと同時にエリヤに与
えられている霊の賜物を受け継ぎたいという思いがエリシャにはあったということです。
ここには二つのことが述べられています。一つはエリヤが3回も移動をするとき、エリヤ
はエリシャについて来ないでいいというのですが、エリヤはついて行くのです。イエス様
の受難と復活の予告が3回であったようにここの移動が3回出てきます。これはエリシャの
求めの強さを表していると思います。確かりエリヤへの尊敬と愛があるゆえにエリヤにつ
いて行ったのでしょうが、それと同時にエリヤの霊の賜物を受け継ぎたいという思いの強
さを表しているでしょう。「求めよ、さらば与えられん」です。
 もう一つのことはエリシャがエリヤの二つの霊の賜物を受け継ぎたいと求めたのに対し
て、自分が取り去られるのを見たらその願いがかなえられるとエリヤが言ったことです。
ということはかなえられないこともあるということです。エリヤが生きたまま天に上げら
れるとは神様の側の出来事です。それを見ることが出来るかどうか。それはどこにあるの
でしょうか。これは私見ですが、聖書のもろもろのメッセージから考えて、エリシャが自
分の栄光のためにこれを求めていれば見ることが出来なかったのではないか。エリシャが
神様の働きにまことに仕えたいというところに立っていたから見えたのではないかと思え
ます。
この出来事には熱心に求めることの大切さと、真に見る目を与えられることの大切さが示
されています。
 
 使徒書の箇所は福音が隠されている人たちもあること。それと同時に創世記のはじめの
箇所で「闇から光が輝きでよ」と命じられた神様がわたしたちの心に働きかけて、イエス
・キリストの御顔に輝く神の栄光の真の姿を悟る光を与えてくださったと示しています。
自分ではなく神様を中心に置いて、真の福音を受け取って行きましょう。