2024年1月28日「悪霊の証し」藤井邦夫牧師

礼拝説教

申命記18:15~20、1コリント8:1~13、マルコ1:21~28

 
 マタイ福音書9:35には「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を
宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と伝え、イエス様が洗礼を受けら
れた後、十字架への歩みをされるまでの働きをまとめて言っています。福音の宣教、教え
、そして癒しなどの奉仕がその働きであったと伝えています。今年の中心の福音書はマル
コですが、マルコの先週は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい
」と福音の宣教が伝えられています。そして今日の箇所では教えと癒しが伝えられていま
す。
 イエス様はガリラヤのカファルナウムに行かれ安息日に会堂で教え始められたとありま
す。そしてそれを伝えたときの特徴はイエス様の教えが権威ある者としての教えであった
ということです。当時教えをするというのは律法学者たちでした。彼らの働きは神様の教
え、律法をその時代に合わせて解釈して伝えるという役割であったと言われています。す
でに神さまからのものとしてあった律法を、今の時代に適用する、例えば安息日を聖とし
なさいという教えを、今その教えによって生活するとはこうこうすることである。なん歩
以上歩いてはいけない。そのような働きをしていました。それに対してイエス様の言葉は
神様の御心を直接伝えるようなものでした。たとえばマルコ福音書は教えをまとめて伝え
ていませんがマタイ福音書は山上の説教としてまとめてイエス様の教えを伝えています。
そしてその最初は「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」
です。神様の深い御心を、恵みの心を直接伝えてくださるような言葉です。そのようなイ
エス様の教えは直接神さまからのものとして感じられたのでしょう。それを権威あるもの
として教えられたと表現しているのです。
 さて今日の中心的なテーマである、悪霊を追い出された個所に行きましょう。今日の説
教題を「悪霊の証し」と変な題にしてしまいました。悪霊は人々に働きかけて、人々に取
りつき、神さまから引き離し、暗い歩みへと人々を陥れようとするものです。聖書の中に
は悪霊に取りつかれて、墓場を住まいとし、鎖に結ばれてもそれをすぐに引きちぎってし
まう人の話が出てきます。悪霊は人々を神様から引き離そうとし、その人を支配して暗い
世界に投げ込もうとするものです。ですから自分と反対の神様からの方をいち早く感知す
るのです。イエス様に対して我々にかまわないでくれ、イエス様のことを神の聖者だと言
ったのもそのためです。反対の働きから神様からの方であることを述べたので「悪霊の証
し」と言ったのです。人間を暗闇に投げ込もうとする力、またそこから人間を救い出され
るイエス様、そのことをもう少し考えてみましょう。
 ある方の言葉を紹介しましょう。その方はハベルというかたで共産世界が崩れて初めて
チェコスロバキアの初代大統領になった方です。まだ共産党の世界の時、これに対して戦
ったので、多くの苦しみを経験した人でした。彼はクリスチャンではなかったと思います
。その方が広島で講演をしたときの一部です。「自分は投獄をされていた時を含めて、す
べてに見放され、自分のやっていることに全く意味がないと思える時を幾度となく経験し
た。しかし、私たちの生命がたとえちっぽけでも、神秘的な存在の秩序を作る一部である
。その深い確信から、希望を回復することができた。人間が普遍的な、個を越えたものの
中に存在すること、そしてまた、この普遍的な秩序の中で個の行為をちゃんと見、記録さ
えしているものがあるという確信、そこから来る責任感、それらによって私たちは人類の

未来に希望を失わないのだ」 ここには幾度となく失望の世界、自分の存在に対しての絶
望感を経験している人の姿があります。その人を力付けたのは「個を超えた普遍的な存在
、全てを見ておられる存在があるという確信」でした。彼はクリスチャンではないので神
と表現していませんが、私から言えばその普遍的な存在は神と言ってよいと思います。
 わたしの経験を少しお話ししましょう。78年という人生を歩んできて、また50年余り
の牧師としての生活をしてきて、本当にたまにですが、虚無感に襲われることがあります
。それは自分の力ではどうしようもない理不尽なことに出会ったときや、非常に困難な状
況に陥った時や、またマンネリ化した世界に投げ込まれたときです。そんな時、神さまな
んかいないのではないかという思い、自分の存在は、また自分の歩みは意味がなかったの
ではないかという空虚感、虚無感。そのような思いに襲われるのです。サタンがイエス様
を荒れ野で誘惑したとき、高い地位や栄華を示しました。そのようにこの世的に高い地位
に就いたわけではない、何か足跡を残したわけでもない、そのような空虚感も現れます。
そのような思いに投げ込まれて、歩んでいる時、ふと神様の方に心が向けられるのです。
すると180度世界が変わるのです。そこには希望があるのです。生きる力が湧くのです。
イエス様が洗礼を受けられた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だ」と
言われたことが、イエス様によって私にももたらされます。お前はわたしの愛する子だよ
という神さまの声です。これは他と比較したもの、そのようなものではありません。わた
しの存在そのものに対する声です。わたしがお前に与えたもの、そのものをもって歩んで
いきなさい。神と隣人を愛して歩んでいきなさいとの声です。
 私たちは命と希望の源である神さまへの信仰を与えられています。しかし時にはそこを
離れるような思いにかられるときがあるかもしれません。今日の日課を読むとイエス様は
そのような思いから私たちを抜け出すように、神様に心を向けるように助けてくださる方
です。とにかくイエス様とかかわっていきましょう。そのイエス様には私たちを暗い力か
ら救い出し、神様に心を向けるようにする力があるのです。このようなイエス様が与えら
れていることに感謝しましょう。