2024年1月21日「時は満ちた」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ヨナ3:1~5、10、1コリント7:29~31、マルコ1:14~20

 
 いよいよイエス様の宣教の開始です。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔
い改めて福音を信じなさい。」でした。そしてすぐにされたことは4人の弟子たちを呼び
出されたことでした。それらが今日の日課として与えられています。イエス様の活動の開
始はバプテスマのヨハネが捕らえられたのちであること、そしてその活動の場所はガリラ
ヤであることがまず伝えられています。ここにもイエス様の特徴があります。バプテスマ
のヨハネは荒れ野での預言者でした。その生活の様はいなごと野蜜を食べており、ラクダ
の毛衣を身に着けていました。人間として厳しい禁欲的な生活です。一方イエス様はガリ
ラヤの世俗の世界に出ていかれました。マタイ福音書の11章にヨハネが食べも飲みもしな
いと悪霊に取りつかれていると言い、人の子が来て飲み食いすると大食漢、大酒飲みとい
うとあることから、この人の子はイエス様のことを言いますから、イエス様は食べたりお
酒を飲んだり、普通の人の生活をされていたと想像出来ます。また、ガリラヤは異邦人の
地に接している地方の土地です。民衆によって代表される土地であり、エルサレムのよう
に正統的なユダヤ教の指導者たちによって代表される土地ではありません。マルコは最初
の14節でこのようなイエス様の特徴を示していると考えられます。
 イエス様の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた」で始まりました。この「時」は神様
が定められた時、神様の時です。単なる時間の流れの時ではありません。特別な神様の時
が満ちたのです。神様の時が成り立つその時が来たのです。「神の国」とは神様の支配の
時です。そこには神様の栄光が現れ、正義が成り立ち、平和の時であり、救いの時です
。「近づいた」を有名な神学者はまさに来たと理解しています。ルカ福音書の4:16以下
にイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の61:1以下の「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油注がれたからである。主がわたし
を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を…」というところを読まれそして会衆に「
今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した」と言われました。そのことからも近づい
たは、まさに来ていることを示していると理解できるでしょう。だから「神の国は近づい
た」は神様の救いの時、正義の時がまさに来たことを、現し、イエス様が色々と傷ついた
人たちをいやされたのはまさにこのことを示していると思われます。
 「悔い改めて福音を信じなさい」神様の方に心を向けなおしてこのよう訪れを受け取り
なさいとイエス様は勧めておられます。そしてここの特徴は時は満ちて神の国は近づいた
から心を神様の方に向け、良い訪れを受け取りなさいというものです。悔い改めなさい、
そうしたら神の国が近づきあなたがたに与えられるというものではありません。恵みの先
行性です。このマルコにおけるイエス様の言葉は今日のヨナ書の日課とは違うことが分か
ります。ヨナ書におけるニネベへの預言の出来事は歴史的は事実ではないと言われていま
す。異邦人にも神様の恵みが及ぶことを示した文書であると言われています。ニネベは古
代のアッシリア帝国の首都であったところで、大いに繁栄した時期がありました。ナホム
やゼファニア書にはこの繁栄し堕落した町が滅ぼされるという預言がなされていた町でも
あります。そしてBC612年に滅びてしまいました。ヨナ書はこのような町をも、しかも異
邦人の町をも神様は心にかけてくださることを示した書です。しかもニネベの町の大きさ
を実際よりははるか大きく表現しています。この町に対してヨナは神様の言葉を伝えまし
た。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」と。強烈な預言です。それに対してあり
えないようなことですが、ニネベの町の人たち、王様も民衆も悔い改め、断食をしたので

す。ここでマルコとの違いがよくわかられると思います。ヨナの言葉によってニネベの人
たちは悔い改めました。それによって、神様はニネベの人たちを赦されたのです。
 しかし、マルコの方は神様の救いの時がやってきたから、神様のほうを向いて、その救
い、良い訪れを受け取りなさいというものです。イエス様によって救いの時、恵みの時が
やってきたのです。だから神様のほうを向いてそれを受け取りなさいというものです。「
福音」良い訪れがまずあるのです。このよい訪れを受け取ること、それが呼びかけられて
いるのです。よい訪れは何でしょうか。神様の平和、救いがやってくること、それが具体
的には苦しんでいる人たちの癒しや救いをイエス様がもたらしてくださることに表れてい
るでしょう。そして将来的には神様と人間の間を妨げているもの、罪とその支配をイエス
様の十字架の死と復活によって取り払ってくださることでしょう。そしてもう少し言えば
イエス様そのものが良い訪れでしょう。
 今日の日課はもう一つ大事なことがあります。それは弟子たちを呼び出されたことです
。イエス様は自分だけで宣教しようとされたのではありません。弟子たちを呼び出されま
した。1コリント1:21に「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと」
とあります。弟子たちを用いられるのです。ここにもマルコの特徴があります。弟子たち
はイエス様の活動を見、その神の子としての力を見てからこの呼び出しに応えたのではあ
りません。イエス様が宣教を開始された後すぐに弟子の呼び出しがあるのです。このこと
はマタイとマルコの特徴です。ルカはイエス様の活動ののちにこの呼び出しがあるのです
。これは何を意味しているでしょうか。それはイエス様の呼び出し、そしてそれへの応答
として従っていくこと。この二つが大切であることが示さ強調されていると思います。わ
たしたちもこの呼び出しの声を聞いて、それにこたえていきましょう。