2024年1月7日「あなたは私の愛する子」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記1:1~5、使徒言行録19:1~7、マルコ1:4~11

 
 今日は主の洗礼主日としてイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことが
日課として与えられています。バプテスマのヨハネの洗礼は「罪の赦しを得させるために
悔い改めの洗礼」と説明されています。しかし罪のない神の子がなぜバプテスマのヨハネ
から洗礼を受けられなければならないかという問いが生じるかもしれません。マタイ福音
書ではそのことが取り上げられていますが、マルコ福音書は一切そのことを取り上げず、
イエス様が洗礼を受けられた時、天が避けて聖霊がイエス様に下り、そして天から「あな
たはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきたということに焦点
が当てられています。今日はマルコに従ってここに注目して聞いていきたいと思います。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉、この形式はここで初
めて使われたわけではありません。同じような表現は旧約聖書の中にも出てくるものです
。例えば詩編の2:7に「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という言葉が
あります。これは王の即位の時に、この王位の権威を告げる言葉でした。すなわち王の働
きに召し出し、それを権威づける言葉でした。
 またイザヤ書42:1には「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜
び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、」とあります。それをマタイ福音書の
12:18ではイエス様がこのイザヤの言葉の実現であるとして「見よ、わたしの選んだ僕
。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」と少し変更してイザヤ
書42:1の箇所を引用されています。
これらのことで、わたしがお伝えしたかったことは、ある働きへの派遣に際して神様の
側からの認証がそこにあるということです。そしてイエス様は神様によってある働きに派
遣されたということです。しかもイエス様は神様の愛される子、その心に適う者であると
いうことです。ということはイエス様は神様にとってその存在を大切に思われている方、
また神様の御心を表わす方であると言えると思います。ヨハネ福音書の序説のような部分
、そこには抽象的にイエス様の誕生が表現されていますが、その終わりの部分に、1:18
節ですが「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、こ
の方が神を示されたのである。」とあります。イエス様とはだれかの問いに対してこの方
は神様が愛された方、そしてこの方を見れば神様がどのような方であるかが分かる。その
ような方であること、そして神様は神様の御心を実現するためにこの方を派遣されたので
あることが分かります。
今日はもう一つ大切なことを見てみましょう。それはわたしたちに関係することです。
それはバプテスマのヨハネが言っていること、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けた
が、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言ったことです。今日の使徒書もエフェソの
人々がヨハネの洗礼しか受けていなかったこと、その人々にパウロが主イエスの名によっ
て洗礼を授け、頭に手を置くと聖霊がその人たちに下り、その人たちは異言を話したり、
預言をしたりしたとあります。イエス様は聖霊によって洗礼を授けられる方である、それ
ゆえに、イエス様の名による洗礼も聖霊による洗礼であることが示されています。そして
私たちはイエス様の名による洗礼、もう少し詳しく言えば父なる神、子なるイエス様、そ
して聖霊の名による洗礼を受けたのです。
 このことはどのような意味を持っているでしょうか。先週の使徒書の日課ガラテヤ書

の4:5節の後半から6節にかけて「わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがた
が子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってく
ださった事実かわかります」とあります。イエス様は神様のことを「アッバ、父よ」と呼
ばれ、そう呼ぶイエス様の霊を私たちの心に送ってくださったとパウロは言っています。
わたしたちは神様のことをお父さんと呼ぶことが出来るのです。それはイエス様の霊がわ
たしたちに与えられているからです。それなら逆に神様はわたしたちを子と呼んでくださ
る。しかもイエス様の霊が与えられイエス様に結ばれているなら、神様が聖霊によって「
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われたことは同時にわたし
たちにも言われることではないかと思うのです。わたしたちはイエス様によって神さまの
愛する子、神様の心に適う者と呼ばれるものにしてくださったのです。
そしてそれはイエス様がある働きに派遣されるときの神様の出来事であったように、わ
たしたちもまた派遣されるものとしてこの「わたしの愛する者、わたしの心に適う者」と
いう言葉があるでしょう。それはわたしたちの人生への派遣、もう少し詳しく言えば、神
さまと隣人を愛して歩む人生への派遣と言えるでしょう。