2023年12月10日「神の子イエス・キリスト」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:マルコ1章1-8節
説教題:神の子イエス・キリスト
  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

  1. 荒れ野、叫ぶ声
      待降節第2主日の今朝与えられたのは、マルコ福音書の1章でありました。その中には、旧約
    聖書イザヤ書の預言の言葉がありました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/そ
    の道筋をまっすぐにせよ。』」という部分です。イザヤ書40章には、確かにそのように書かれ
    ているので、イエスさまの道備えをした洗礼者ヨハネの登場も、その500年から600年前か
    ら預言されていたのだと理解することが出来ます。しかし、イザヤ書の預言は、本当に洗礼者ヨ
    ハネの登場を預言したものだったのでしょうか。というのも、イザヤ書40章と、マルコ福音書
    1章を見比べてみると、そこには違いがあるように思えるからです。
    「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に
    広い道を通せ。」イザヤ書40章3節
      イザヤ書では、呼びかける声は荒れ野から聞こえるとは書かれていません。荒れ野は主のた
    めに道が備えられる場所であって、声のする場所とは書かれていないのです。
     「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」マルコ福
    音書1章3節
    マルコ福音書では、荒れ野で叫ぶ声がするとされています。明確に、叫び声は荒れ野から聞こ
    えるのです。
    恐らく、イエスさまがお生まれになる以前にイザヤ書の預言を読んだイスラエルの民にとって
    、この箇所はバビロン捕囚の終わりと、エルサレムへの帰還について語られた箇所だと理解した
    でしょう。祖国がバビロンによって征服され、荒廃してしまった。王や聖職者、政治を司ってい
    た者たちはバビロンへ連れて行かれてしまったが、連れ去られた彼らが荒れ野を通ってエルサレ
    ムへと帰還したのだ、と。では、福音書を記したマルコは間違えてしまったのでしょうか?結論
    から言うと、マルコは間違えていません。旧約聖書はヘブライ語で書かれた後、紀元前4世紀頃
    ギリシャ語に翻訳されました。これは70人訳聖書と呼ばれ、伝説では70人の翻訳者が70日
    で翻訳したことから、70を表すセプチュアギンタと呼ばれます。そこでは今朝のイザヤ書の箇
    所は「荒れ野で叫ぶ者の声がする」とされているのです。マルコ福音書と辻褄が合います。翻訳
    者たちが底本にしたヘブライ文字はどっちにも取れる書き方だったそうです。「荒れ野に」とい
    う言葉は、叫び声がする場所ととることも出来たし、道を整える場所ともとることも出来たとい
    うことです。
    なぜこのようなどちらでも良いと思えることについて触れたかと言うと、荒れ野は洗礼者ヨハ
    ネの叫ぶ場であり、同時に、主の道が備えられる場でもある、このことは大切だと感じたからで
    す。マルコ福音書が、洗礼者ヨハネが荒れ野で叫んだことだけを言うつもりなのであれば、今朝
    の福音書は過去の出来事です。しかし、荒れ野が主の道を備える場所でもあると読むのであれば
    、それは、この世界の荒れ野を、私たちの身近な荒れ野を、私の心の中に在る荒れ野を知ってい
    る私たちに向けられた言葉であると思うのです。
  2. 主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
      では、荒れ野に主の道を整えるとはどういうことなのでしょうか。洗礼者ヨハネは、その名
    の通り人々に悔い改めの洗礼を授けていました。ユダヤの全住民がこぞってヨハネのもとを訪れ

たとあります。それだけではありません。イエスさまさえも、ヨハネのもとを訪れ洗礼を受ける
のです。ヨハネの道備えは無事に成功したかに思えました。しかし、私たちは、この先に起こる
出来事を知っています。洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスによって処刑されてしまうのです
。洗礼者ヨハネの道備えは失敗したのでしょうか。それとも、イエスさまに洗礼を施すことがで
きたのだから、命を失うことになったけれどヨハネに与えられた道備えという使命は全うされた
のでしょうか。冒頭お話しした通り、ヨハネの声が荒れ野に語り掛ける声なのだとすれば、ヨハ
ネの道備えは、イエスさまの到来を待つことと共に、私たちに語り掛ける声でもあるのです。そ
してそれがイエス・キリストの福音だと、「時は満ちた」と、マルコ福音書はその最初に語るの
です。

  1. 福音とは何か
      マルコ福音書の冒頭の言葉は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」であります。こ
    れはマルコ福音書のタイトルと言っても良いでしょう。この書物がマルコによる福音書と呼ばれ
    るのは後の時代の話です。この書物は、「神の子イエス・キリストの福音」を伝えるものなので
    す。私たちは全く違和感を持たないのですが、イエス・キリストとはイエスが救い主であるとい
    う意味の言葉です。決して名前と苗字ではありません。しかしマルコ福音書が書かれた当時でさ
    え、「イエス・キリスト」それ自体が一つの単語として知られていたといいます。だからマルコ
    は、敢えてイエスさまの名前にもう一つの敬称を付けるのです。それが「神の子」です。神の子
    イエス・キリストと呼ぶことによって特別な尊厳を示したのです。そして後に福音書と呼ばれる
    この書物は、確かにイエスさまによって伝えられた福音を示すのですが、そうであるならば、不
    思議だと思うことがあります。どうして、洗礼者ヨハネのことから書かれるのかということです
    。イエスさまにフォーカスを充てて書かれて然るべきじゃないかと思うのです。しかしここに大
    切な意味があります。福音とは、「イエスさまがキリストであり、神の子である」そのことを知
    ること、そして伝えることが、福音なのです。決してイエスさまの言葉や教え、行いだけが福音
    ではないのです。だからこそ、マルコ福音書はその道備えをした人物、洗礼者ヨハネの歩みから
    書き出すのではないでしょうか。ヨハネの道備え、主の道を整え、主がどういうお方か語ったこ
    と、これは福音そのものだと、その書き出しに語るのではないでしょうか。
  2. 神の子イエス・キリストを伝える者として歩む
      福音とは、遠くに在って手の届かないものではありません。もっと私たちの近くに在るもの
    です。私たちの先達、使徒パウロは、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、
    召されて使徒となったパウロ」(ロマ書1:1)と自らを紹介します。福音という言葉を【イエス
    ・キリストが神の子と証しする】と言い換えたならば、意味がスッキリするように思います。そ
    うすると先のパウロの自己紹介は「キリスト・イエスの僕、【イエス・キリストが神の子と証し
    する】ために選び出され、召されて使徒となったパウロ」となります。他の箇所でも同様です。
    ロマ1:15「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」とは、「そ
    れで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ【イエス・キリストが神の子】だと告げ知らせたいの
    です」となり、ロマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシ
    ア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」は「わたしは【イエス・キリ
    ストが神の子だと証しすること】を恥としない。【イエス・キリストが神の子と証しする】こと
    は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです
    。」となるのです。神の子イエス・キリストの福音、それはイエスさまの言葉、教えだけではな
    いのです。イエスさまが神の子である、このことを自らが聞くことも福音であり、告げ知らせる
    こともまた福音なのです。福音=良き報せは私たちを通して、この世界に告げ知らされてゆくの
    です。この世界の荒れ野に、私たちの身近な荒れ野に、私の心の中に在る荒れ野に、福音が告げ
    知らされてゆく。神の子イエス・キリストの福音の初め。福音は確かに始まったのです。神の子

がお生まれになり、そして再び来られるその日まで、私たちは福音(イエス・キリストが神の子と
証しする)ために生きてゆきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。