2023年12月3日「再臨の主」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ63:19b~64:8、Ⅰコリント1:3~9、マルコ13:24~37

 
 私はイエス・キリストを私の主であり、救い主であると信じています。またイエス・キ
リストこそわたしの歩みを導いてくださる方、支えてくださる方であるとも信じています
。ですから、イエス・キリストにあること、イエス・キリストに結ばれていることが大切
であると考えています。それゆえに、イエス・キリストがどんなに真実な方であり、愛で
ある方であるかということと、私自身がこのイエス・キリストに誠実であることが大切で
あり求められていることだと思っています。 
 イエス・キリストに結ばれること、イエス・キリストにあることの大切さはたくさん聖
書の中に出てきます。イエス様の言葉として伝えられている福音書の中には、ヨハネ福音
書の15章に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言われ、「枝が、木
につながっていないならば、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わ
たしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。」と言われていますし、ヨハネ
福音書の10章には羊飼いと羊の関係が書かれていて、真の羊飼いであるイエス様に導かれ
ることによって、羊である私たちは真の命を受けることが出来ると示ささています。この
ようなたとえだけでなく、ヨハネ福音書には直接的に語っているところがいくつかありま
す。例えば14:6節に「イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である。わ
たしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。』」とあります。
 マタイ福音書には11:28に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来な
さい。休ませてあげよう。」という有名な招きの言葉もありますし、18:20には「二人
または、三人がわたしに名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」という
約束の言葉によって、イエス様の名によって集まることの大切さが示されています。
 また使徒書の大部分を占めているパウロはキリストにあることを強調しています。パウ
ロの代表的な言葉は、有名なガラテヤ2:20の「生きているのは、もはやわたしではあり
ません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」です。パウロにとって十字架
にかかり、復活されたキリストの内にあって生きることこそ、もう少し言えば、わたした
ちの内にあってキリストが生きてくださることこそ大切なことなのです。
 今日は待降節(アドベント)第1主日です。この日から教会暦の新年となり、これから
しばらくの間、イエス・キリストの出来事、イエス様がどのような方であるかが示される
日課となっています。教会暦の今年は2024年3月31日が主の復活日です。イエス・キリス
トにつながっていることが大切であるなら、そのイエス・キリストがどのような方である
か、自分勝手に理解しては意味がないと思います。イエス・キリストがわたしの内にも、
あなたがたの内にもしっかりと形づくられるように、しっかりと聞いていきたいと思いま
す。
 今日はアドベント第1主日ですが、アドベントとは到来、再臨を意味しています。今日
のテーマはイエス様の再臨です。なぜイエス様の誕生を迎えるとき、最初にこのイエス様
の再臨の日課が与えられているのでしょうか。わたしも長年不思議に思っていました。そ
のヒントは今日の使徒書の日課にあります。1:7~9に「その結果、あなたがたは賜物に
何一つかけるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの表れを待ち望んでいます
。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、
非の打ちどころのない者にしてくださいます。この神によって、あなたがたは神の子、わ

たしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」ここを読むと、イ
エス・キリストの日までにわたしたちを非の打ちどころのないものにしてくださるために
、イエス・キリストとの交わりの中に入れられたということが分かります。だから、イエ
ス・キリストがどのような方であるかを知るという今日の日課は、イエス・キリストがこ
の世に人となってこられただけでなく、終わりの時に、再び来られて、わたしたちの前に
立たれるということです。だから目を覚ましていなさいと今日の福音書は伝えています。
 終わりの日があるということは、聖書が示すことは、必ず真実が成り立つ日が来るとい
うことです。この真実が必ず成り立つ日が来るということはわたしたちの根本的な希望で
す。そしてわたしたちがこの世で困難の中にあっても、できるだけ真実に生きようとする
力にもなる日です。しかも、イエス様が人間となってこられるのは、この再臨の主イエス
・キリストの日にわたしたちを非の打ちどころのない者にしてくださるためであるという
のです。だからこの人間となってこられたイエス・キリストとの交わりの中に生きること
がどんなに大切なことかが分かります。パウロはローマ書8:31節以下で「もし神がわた
したちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対できますか。」と言い、更に「死んだ
方、否、むしろ、復活させられた方である、キリスト・イエスが、神の右の座に座ってい
て、わたしたちのためにとりなしてくださるのです。」とも言っています。だから、イエ
ス様はわたしたちの味方として、わたしたちを愛して、真の命の世界に導いてくださる方
であること、そのためにこの世に人間となってきてくださったのです。そしてそのことを
喜び迎えるとき、単に喜び迎えるのではなく、イエス様は再臨して、裁きの座に着かれる
方であることを覚えて、目を覚まして、しかし、その愛に信頼して、この喜びの時を迎え
ることが示されていると言えます。