2023年11月26日「すべてを見ておられるキリスト」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エゼキエル34:11~16,20~24、エフェソ1:15~23、マタイ25:31~46

 
 教会手帳を見ると、今日のテーマは「永遠の王キリスト」となっています。王というと
どんな印象を皆さんは持たれるでしょうか。人間の社会の中に王というとあまり良い印象
を私は思いません。それはサムエル記上8章にある、人々が外国の脅威の中から、国に王
を立ててもらって力を得ることを目的として、預言者サムエルに求めたものでした。それ
に対して神は認めるようにサムエルに言います。しかしそれは「彼らの上にわたしが王と
して君臨することを退けているのだ」という神からの言葉を伴ったものでした。
 イエス様はこの世の「王」ではありません。「永遠の王」です。神様の側の王です。王
が意味するところは、全能で、全てを司っておられ、何ものにも支配されない方、すなわ
ち暗い力にも支配されない方であることを示しています。そして人々はこの王に従うこと
が求められます。イエス様はそのような方であることを覚えることが今日私たちが聞くべ
きことです。
 その中で今日注目すべきことは、使徒書のエフェソ書に「神はこの力をキリストに働か
せて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、全ての支
配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあら
ゆる名の上に置かれました。」と永遠の王としての姿を示し、その後に「神はまた、全て
のものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会に
お与えになりました。」と伝えています。わたしたちの教会にも、キリストが頭としてい
てくださるのです。ですから私たちに必要なことはこの頭なるキリストに心を向け、従っ
ていくことです。
 福音書の方から聞いてみましょう。この永遠の王としてのキリストはまた終わりの時に
裁きの座に着かれる方です。その様を「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくる
とき、その栄光の座に着く。」と伝えています。そして羊を右に、山羊を左に分けられる
というのです。そして右に分けられた羊に対して、ここではキリストのことを王と言われ
ていますが、彼らに自分が困難な状況にいたときに助けてくれたことを伝え、用意されて
いる国を受け継ぎなさいと言われます。このとき注目すべきことは、言われた彼らがキリ
ストに対してしたと思っていないことです。すなわちキリストに褒めてもらうとか、いい
点をつけてもらうとかの意識が全然なかったということです。それは自分のためにしたの
ではないことを示しています。相手への愛ゆえにそのことをしたことが示されていると思
います。
 一方、左の分けられた山羊に対して言われます。あなたがたは困難の時にわたしを助け
てくれなかったと。そうすると左にいた人たちは言います。すると彼らは驚いて、いつイ
エス様が困難な時に助けなかったかと言います。この言葉の裏にはもしイエス様が困難で
あったら助けただろうということがあります。このことは自分たちがイエス様に褒められ
るような状況ならその行為をするという思いが隠されていると思います。でもこの世で困
難にある人たちには心を向けていないのです。紫の衣を着て贅沢に暮らしていた人が、自
分の家の前で物貰いをしているラザロに見向きもしなかったようにあるのです。
 それらに対して、困難な状況にある人たちにしてくれたことは自分にしてくれたことで
あるとイエス様は示されるのです。

この話の中で2点注目したいと思います。一つは羊を右に山羊を左のということです。羊
は羊飼いに忠実に従う家畜です。聖書の中では羊と羊飼いの関係が示されています。イエ
ス様は良い羊飼いであるとも言われています。ということは羊と言われているのは、イエ
ス様に導かれていることを示していると言えます。その人たちはイエス様に導かれ、イエ
ス様の在り方に影響を受けて生きている人たちです。イエス様が弱い立場の人たちに心を
向けて、手を差し伸べられる方であり、そこに相手を大切にする愛がある。そのことに影
響を受けて生きている人たちです。だから目の前に助けを必要とする人たちが現れると、
愛ゆえに手を差し伸べるのです。
 一方山羊はわがままで、自分勝手に生きる者としての姿が、聖書では印象付けられてい
ます。だからイエス様の在り方に従うのではなく、自分勝手に生きているのです。そうす
るとどうしても自分のために生きてしまいます。だから目の前に困難な人が顕われても手
を差し伸べることがないのです。
 これらのことを考えると、この世でイエス様の光を受けた羊として生きていたか、自分
勝手な道を歩んでいた山羊としてあったかがそこには示されていると思います。
 もう一つの注目点はイエス様が挙げられた、助けてもらった人たちの状況です。6種類
挙げられています。「飢えている人」「のどが渇いている人」「旅をしている人」「裸で
ある人」「病気の人」「牢に入っている人」これらの人たちです。最初の4つは衣食住に
対して困難の中にあることが言えるでしょう。「病気の人」は身体的に困難にある人。こ
れは体の病気だけでなく、高齢になって体が弱っている人たちも含まれるでしょう。そし
て「牢に入っている人」はこの世で何か悪いことをして捕まった人を示していると思いま
す。むろん悪くなくてもこの世の権力によって牢に入れられた人も入っているでしょう。
イエス様の時代もこのように困難の中にいる人たちが多くありました。今もそれが少なく
なったかというと、そうではないでしょう。先日厚狭教会で西中国地区のるうてる秋の大
会が開かれました。そこに徳弘浩隆先生をお呼びして説教と講演をしてもらいました。徳
弘先生はブラジルに宣教師として、10年行かれました。徳弘先生はパソコンの技術にとて
もたけています。それらや、開かれた心によって、色々な活動をしてブラジルの日本人教
会を盛んに盛り上げ、そして日本に帰ってきて、その時の経験を生かして、日本にいる外
国人のための働きをされています。その講演で教わったことは、自分たちの周りに何らか
の困難にあっている人たちにがいること、そしてその人たちに心を向けていくことが出来
ますようにということでした。