2023年11月5日「さいわいなる者たち」藤井邦夫牧師

礼拝説教

黙示録7:9~17、Ⅰヨハネ3:1~3、マタイ5:1~12

 
 今日は全聖徒主日です。11月1日が全聖徒の日で、11月のはじめの日曜日が全聖徒主日
として守られます。
 聖徒はキリストによって召された人達、すなわち信仰を与えられた人たちを示していま
す。全ですから、もうすでに天に召された人達も含まれています。ですから特にこの日は
天に召されている人たちのことを覚えます。宇部教会は召天者記念室を設け、そこに召天
者の写真が飾られています。今日はそこで礼拝に出席された人達が献花をして特別な日と
します。
 今日与えられた聖書の箇所を見てみましょう。ヨハネ黙示録の箇所は天に召された人達
がどのようであるかが示されています。そこにはおびただしい白い衣を着た人たちがいま
す。しかもその人たちだけではなく、そこには神様も、そして小羊と書かれているイエス
・キリストも一緒におられます。もう直接神さまと一緒のところにその人たちはいるので
す。そして皆が神様をほめたたえている世界です。ということは皆の心は神様と一つにな
っていることも示された世界です。白い衣は何を示しているかを長老が説明します。「彼
らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と。す
なわちイエス様の贖いで罪も赦され、真の命の中に入れられたことを示しています。そこ
は神様が共におられるところだから、神さまの力や栄光や愛で満ちたところです。だから
この世のような苦しみもなく、この世で受けた苦しみによって泣くようなことはもうない
世界であることが示されているのです。先に召された人達はこのようなところに招かれて
おり、この世でまだ生きているわたしたちもこのような世界に招かれていくことがこの聖
書の箇所では示されているのです。わたしたちにとっては大きな慰めですし、大きな希望
です。
 ではこの世で生きている人たちにはどんなことが語られているでしょうか。どんなこと
が示されているでしょうか。今日の日課の福音書の箇所から聞いてみましょう。
 今日の日課の前の箇所4章の終わりではイエス様が多くの病人をいやされたこと、そし
て多くのところから大勢の群衆がイエス様のところに来たことが記されています。この群
衆は痛みを持った人たち、貧しいまたは困難な生活の中に置かれ慰めを求めていた人たち
であったことが想像されます。イエス様がその群衆を見て山に上られたとあります。イス
ラエルのガリラヤ地方に山上の垂訓の丘というのがあります。聖書で山と書かれています
が、丘と言ったほうが良い所だと思います。イエス様は腰を下ろされ、その周りに弟子た
ちが来て座ります。群衆も近くに来てイエス様の言葉を待っていたに違いありません。イ
エス様は語り始められます。その最初の言葉は「幸いである」です。この「幸いである」
で始まる文章が9続きます。ギリシャ語の本文では「幸いである」が文頭に来ています。
弟子たちだけでなく、病気や貧しさなど困難の中にある人たちに向かって、「幸いである
」という言葉で語りかけられています。この幸いはこの世的に豊かであったり、高い地位
に就くような幸いではありません。神様との関係において、神様が与えられる幸いです。
まず最初に4つ挙げられます。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に
飢え渇く人々」です。この中の「柔和な人々」は聖書協会共同訳では「へりくだった人々
」と訳されています。この柔和なという言葉は美徳としての柔和というより、困難の中に
置かれたり、痛みの中に置かれて柔和にならざるを得ないところからくる柔和です。です

からそこにはマイナスに思えるものを持った人々です。「へりくだった人々」も「へりく
だらされた人々」というようなものを持っている人々です。イエス様の前にいる弟子や群
衆の中にはこの言葉を聞いたとき、自分に当てはまるものを聞き取った人々は多くいたで
しょう。心の貧しさを感じている人たち、ルカでは心のがない、貧しい人々とありますか
ら、イエス様の言葉には単なる貧しい人々も含まれていたでしょう。また悲しみの出来事
の中にいる人、また自分自身を悲しんでいる人々もいたでしょう。また長い間困難の中や
、下積みの中に置かれて柔和やへりくだりの状態にさせられていた人たち、義を求めてい
るけれどどうしても得られない。だから義に飢え渇いている人たちそのような人たちにイ
エス様は「幸いである」と語りかけられたのです。そして幸いであると言われただけでは
ありません。たとえ話で大金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロが、この世を去った
時、天の国でアブラハムと一緒のところにいたように、「天の国はその人たちのものであ
る」と示されたのです。悲しむ人々にも、柔和な人々にも、義に飢え渇く人々にも、慰め
られること、地を受け継ぐこと、満たされることを示されました。
 次の4つというか5つは始めの幸いが慰めに満ちたものであったのですが、今度は励まし
に満ちたもののように思われます。「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実
現する人々」、「義のために迫害される人々」、最後はこの義のために迫害される人をさ
らに強調したものです。憐れみ深いは神様やイエス様の特徴でもあります。相手の存在を
大切にし、痛みや悲しみに心からの同情を寄せることのできる人です。心の清い人は多分
神さまに対して純粋な人でしょう。平和を実現する人々は戦争の多い今の時代に特に必要
かもしれませんし、それだけではなく、身近な人々、隣人と平和を実現する人々でもある
でしょう。義のために迫害される人々は、しっかりと義の上に立とうとしている人、困難
があってもそこに立とうとしている人々でしょう。その人たちに向かって、イエス様は「
憐れみを受ける」、「神を見る」、「神の子と呼ばれる」、「天の国はその人たちのもの
」と言われるのです。これらのものはみな神様の前によいものであると思えます。そこに
生きるようにと「幸いである」という言葉で励ましを与えておられると思えます。
 イエス様はこの世で生きる人たちに向かって、特に痛みのなかにある人達や、神様の前
で喜ばれるような生き方をしようとしている人たちに向かって、「幸いである」と語りか
け、そして幸いへと向かう約束の言葉を与えておられるのです。このイエス様の言葉に導
かれてこの世を生きていきましょう。