礼拝説教
エレミヤ31:31~34、ローマ3:19~28、ヨハネ8:31~36
今日は宗教改革主日です。宗教改革は歴史の中でもとても大きな出来事です。宗教改革
で何が変わったかと言えば、人間が縛られていたものから解放されたこと、自由が与えら
れたことだと思います。
今日の説教題は週報に書かれているとおりですが、これは「我(われ)からの解放」と
普通は読めるだろうと思いますが、わたしの意図はこれは「我(が)からの解放」で、「
われ」ではなく「が」です。がが強いとかいうどちらかというと悪いイメージを持ったも
のです。創造のはじめに創造されたものを見てよいとされたときの人間ではなくて、罪に
陥った後の人間です。今日はこのことに焦点をおいて聖書や先人の歩みから聞いてみまし
ょう。
今日の福音書を見ると「真理はあなたたちを自由にする」とあります。確かに一般的な
歩みを見ても、偽りの中にある時、わたしたちは不自由さの中に投げ込まれます。嘘をつ
くと、わたしたちは暗さの中に投げ込まれ、いつも後ろめたさに支配されます。困難の中
にあっても、真理の上に立っていると思えるときは、自由と力が与えられます。これは確
かに私たちの歩みの経験からしても真実であると思います。真理は自由を与えるものです
。でもこの時に心においておくことは、ヨハネ福音書では14:6に「わたしは道であり、
真理であり、命である」と言われていますし、また1:14に「恵みと真理に満ちていた
」とイエス様のことを言い、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである
」とありますから、真理はイエス様のことを言っているというか、イエス様の特質の重要
な面が真理であることを示しているのです。「真理はあなたたちを自由にする」とは「イ
エス・キリストはあなたたちを自由にする」という意味でもあります。
宗教改革において問題になっているのは「義」すなわち「ただしさ」です。義は真理と
同じように、自由を与えるし、真の命と結びついています。わたしたちがただしさではな
く、間違いの中にあると思うとき、不自由さの中に置かれてしまいます。神様が十戒を与
えられたのは、人間が義の中に生きることによって自由とまことの命の中を生きるように
するためでした。何が義であるかを教えられたのです。どのように生きれば自由とまこと
の命が与えられるかを示されたのです。
「義」ということの時必ず伴うことが「裁き」です。神様は義である神さまであると同
時に、裁き主でもあります。終末の時がさばきの時でもあることはよく示されています。
そして神様の終末の裁きというとき、この世で弱い立場に置かれ、苦しめられている人々
にとって希望の時でもありました。この地上では悪が力を振るっているが、終わりのとき
神さまが義を成り立たしてくださるから、この世で弱い立場にある人にとっては希望の時
でもあったのです。
しかし同時に「裁き」はこの世で生きている人たちにとって大きな問題でもあります。
その時に生じる一つのことは他人を裁くことによって自分をただしいものの立場において
安心するということです。ユダヤの社会において罪人をおいて、自分たちはただしい民で
あると安心できる社会体制を作ったことはその一つでしょう。他の人を裁く多くの人はそ
のことにおいて自分をただしいものの立場において安心する傾向があると思います。
ところがこの裁きを自分に向ける人たちもあります。ただしく歩もうと思ってもなかな
かそのように歩むことが出来ない。そして苦しむ人々です。その苦しみの中でも少しの誤
魔化しの姿も生じます。自分は正しく生きようとしている。しかし、自分を惑わすものが
自分を襲ってくる。自分は正しいことを望んでいるのに、その暗いものが襲って来て、自
分を暗闇に引きずりこんでしまう。自分は正しいのにあの暗いものが悪い。そう思うので
す。それが進むと、自分の中にサタンがいて、自分は正しさを望んでいるがサタンが自分
を暗闇に投げ込むのだと思うのです。ローマ書の7章の終わりの方でパウロはこのことを
示しています。関心のある方は帰ってからじっくりと呼んでみてください。この葛藤の中
から、ある人たちは気付くのです。結局自分自身が悪いのだと。そうするとそこには絶望
しかありません。ルターの言葉ではないかと言われている「手を洗えば洗うほど手の汚れ
が見える」とか、ローマ書7章の終わりでパウロが「わたしは何と惨めな人間なのでしょ
う」と絶望の叫びをあげているのは自分自身が悪いのだと気づいた人の叫びです。
でもその時に次のことが示されたのです。義ということは裁きを伴いますが、裁きが前
面に出て自分を襲うのではなく、この神様の義は、わたしたちを義としてくださる義なの
だということです。神様の義は自分を裁こうとして自分の前にあるのではなく、自分を神
様の義で包もうとしてくださる、自分に神様の義を与えてくださる。神様の義はそのよう
なものであると気づかされるのです。それがイエス・キリストの出来事が示していること
であると。旧約聖書の日課で律法が心の中に記されるとはこのことを言っていると思いま
す。ローマ書の日課で信仰によってということも、イエス様によって示された神様の義を
受け取ることを示していると思います。この発見がルターを自由にしたし、世界を変えて
いったのだと思います。この神様の義は、自分の正しく生きようとした努力で得たもので
はないし、全くの神様の恵みとしてあるものを受け取っただけですから、自分の内には誇
りはありません。誇りは取り除かれたのです。ここに「我(が)からの解放」があり、全
くの自由があるのです。