礼拝説教
イザヤ45:1~7、Ⅰテサロニケ1:1~10、マタイ22:15~22
今日はわたしたち信仰者にとって、とても大事なテーマを示している日課だと思います
。「皇帝のもの」と「神のもの」という言葉が出てきて、わたしたち信仰者にとっては「
神のもの」とは何かということが大切なことであるからです。
「皇帝のもの」とは当時の状況からこのような表現がなされていますが、わたしたちの
目に見える世界で、成り立っているもの、国家とか、法律とか、自然の歩みとか、地球の
温暖化とか、病気とか、わたしたちが生きている世界の現実のようなものです。それ自体
で成り立っていると思えるようなもの、わたしたちが普通はそう考えてその流れを理解し
て、その流れの中で賢く生きようとしているもの、そのようなものを指していると思いま
す。わたしたちはそれに影響されて生きている世界です。わたしたちは真空の中を生きて
いるのではなく、また幻想のようなものの中に生きているのではなく、具体的に見、聞き
、触って感じる世界に生きています。そしてその法則を理解して、より賢く生きようとし
ている世界です。そのために法律を作ったり、生活を工夫したりしている世界です。イエ
ス様は皇帝のものは皇帝に返しなさいと言われているのですから、その世界を否定されて
いるわけではありません。その世界の在り方を理解して、その世界でちゃんと生きること
を皇帝に返しなさいという言葉で表現されていると思います。
では神のものは神に返しなさいということで表現されていることは何なのでしょうか。
神のものとはどんなことかを聖書やイエス様の言葉から聞いてみましょう。
まず聖書がわたしたちに示していることは、その最初に創世記を置き、その1章1節に「
初めに、神は天地を創造された」と根本的なものを伝えます。そして何々あれというとそ
れが存在しました。そして新約聖書ではヨハネ福音書にイエス様の先在の姿を言(ことば
)と伝え、この言によってすべては創造されたと言います。ですからすべてのものは神様
によって造られたのですから、すべてのものは神様のものと言っていいでしょう。
また今日の旧約聖書の日課はペルシャ王キュロスのことを取り上げ、この王を神様が用
いてイスラエルの民を解放されるのですが、今日の日課ではこの王を神様が呼ばれ、そし
て国々を彼に従わせること伝えています。しかし、キュロス王はこのことが神様によって
なされていることを知らなかったと2度にわたって強調しています。そして日課の最後に
、神は光も闇も創造し、平和も災いも創造すると結んでいます。この箇所を見ると現実の
世界に神様はかかわられること、そしてその世界をもつかさどっておられることを示して
います。
イエス様はどう理解しておられるでしょうか。有名な山上の説教の中、マタイ福音書6
章25節以下に「思い悩むな」というところがありますが、ここで、鳥や花を例に出して、
鳥を生かし育み、花を美しく咲かしておられるのは神様であることを示し、すべて神さま
によって与えられるのだから思い悩むなと教えておられます。このことを見るとイエス様
もこの世のすべてのものは特に命は神様のものであると理解しておられたと思います。
イエス様の教えられた主の祈りがありますが、その祈りの中で日ごとの糧を今日もお与
えくださいというところがあります。その日ごとの糧というと私たちは日ごとの食べる物
と理解すると思いますが、ルターは小教理問答書の中でこの箇所を食べ物だけに限定せず
わたしたちが生活する中でかかわるすべてのもの、例えば服なども挙げています。この考
えで言えば日常かかわるすべてのものは神様のものであると理解していることが分かりま
す。
目に見える世界に皇帝のものが広がっていて、それなりの法則で進んでいますが、実は
これらも神様のものであることを聖書は伝えているのだと理解できます。
先日妻の貴子が怪我をして今医大に入院しています。火曜日の朝、妻はプラスチックご
みを捨てに行き、わたしは朝ご飯を食べ、片付けに取り掛かろうとしていた時、助けてと
いう呼ぶ声がします。何か妻が重いものか何かで助けを呼んでいると思い、玄関に出たと
ころ、玄関の土間にへたり込んでいます。そして救急車を呼んでというのです。妻が示す
頭を触ってみると、頭がこぶのように膨らんでいるのです。妻は50年以上前に開頭手術を
しているのでこれはと思い救急車を呼びました。救急車が来て車に乗せ、色々聞きながら
行先の病院を探しています。救急車の中で検査をしたみたいでくも膜下出血の可能性何パ
ーセント、脳出血の可能性何パーセントとか伝えています。小野田労災に電話していたよ
うですが、脳外科の関係で医大のほうがいいということで、医大が受け入れてくれるとい
うことで医大の救急病棟に行きました。わたしは控室で待っていましたが、検査が終わり
、説明を受けました。くも膜下出血がほんのわずかあるけれど、たぶんそちらのほうは大
丈夫だけれど足の付け根のところが骨折しているということでした。そこを金具を入れて
止める手術をするということで、妻も私も同意して、翌日手術をすることになりました。
手術の時、控室で私は待っています。なかなか終わったという知らせがありません。その
とき私は不安な心で考えていました。わたしの母はご存知の方もあると思いますが、79歳
の時自転車にぶっつけられて股関節を折り、金属の股関節を入れる手術をしました。その
とき中に菌が入り、そこが治らないでそれ以後90歳で亡くなり迄、寝たきりになってしま
いました。今妻は76歳です。自分たちは年より若く思っているものですが、母のその時の
年と妻は3歳しか若くありません。ああ自分たちもその年になっているのだと思い、手術
の時に菌が入って同じようになる可能性もあると心配になりました。そしてどうぞ菌が入
らす無事に手術が終わるように祈って待っていました。そのとき不安がわたしの心を支配
していました。その時ふと思ったのです。ああ命も神様のものだと。そうすると不安がな
くなり、神様にお任せする思いとなりました。どうぞ菌が入らないようにしてくださいと
祈りながら、以前の不安な気持ちより、平安を得て待っていました。
見える世界がわたしたちの前に広がっています。そこで私たちは生きています。同時に
それも神様のものであるとのメッセージがあるのです。信仰は目に見える世界に生きてい
ると同時に、それも神様の御手の中にあると受け取ることであると思います。
最後に「思い込む」ことと「気付く」ことの違いをお伝えしたいと思います。思い込む
は心の底ではそうではないと思っているけれど、一生懸命そうだと思おうとすることです
。気付くことは本当にそうだと気付き思うことです。わたしたちの信仰生活の歩みが気付
かされることの歩みでありますように。