礼拝説教
イザヤ25:1~9、フィリピ4:1~9、マタイ22:1~14
今日の福音書の日課を見るとイエス様がエルサレムに入られ、宮清めの行為をされて、
当時の宗教的な指導者たちに対する攻撃の流れの中にあるものです。またマタイ福音書で
はこの後、23章において律法学者やファリサイ派の人々の偽善的な在り方を強く非難され
ています。
このような中で今日の天の国のたとえ話は前半と後半と2度の緊張感を私たちに与えま
す。
婚宴への招き、それは旧約聖書の日課にもありますが、祝宴への招きであり、それは神
様の祝宴、すなわち天の国への招きと考えられるでしょう。今日の日課では2回にわたる
招きが示されています。1回目は婚宴への招きです。2回目は具体的な食事の用意が出来た
こと、牛や肥えた家畜が屠られ食事の用意が出来たという、漠然とした招きではなく、具
体的な時間が示された招きです。それに対してある人は招きに応えず畑に行きます。また
他の人は招きに応えず商売に行きます。自分たちの生活の中に留まるのです。具体的な招
きに対して、日常の生活の方に心を向けて、そのようにします。その他の人々が出てきま
すが、この人たちは使いのものを殺して、王の招きを明らかに拒絶します。これに対して
裁きが下されます。これは預言者たちを拒絶したり、殺したりしたこと、そのようなこと
が今までのたとえで示されたように、ここでも示されています。
この前半のたとえに対してわたしたちはどう反応するでしょうか。ほとんど緊張感を持
たないかもしれません。今日も神様の招きに応えて、礼拝に出てきているし、イエス様を
受け入れて洗礼も受けている。だから自分は天の国への招きに応えていると。しかし、少
し緊張感を持つ人もいるかもしれません。日常生活に追われたり、色々な事情で神様の招
きに応えていないと感じる人もいるかもしれないからです。また、ときには救いに関して
疑問を持ち、何らかの拒絶感を持っている人もいるかもしれません。その場合、少しの緊
張感を感じることでしょう。でも多くはそれほど緊張感を持たないでここを読んで行くで
しょう。
では後半はどうかというと、ほとんどの人が緊張感を感じて読むことでしょう。大通り
に出て見かけた人は善人でも悪人でも皆集めたとあります。善人でも悪人でもとあるので
、少し疑問に思う人も、また逆にほっとする人もあるでしょう。教会は善人の集まりと思
っている人は少し疑問を持つかもしれません。しかし、クリスチャンはほとんどの人が自
分を罪人であると理解しています。自分の弱さや、自分の心の内に暗いものを感じている
人も多いので、その自分がキリストの十字架によって贖われ、救われたと理解している人
が多いので、悪人もとあることは、ほっとさせられるところかもしれません。
しかし、次に出てくる、王が祝宴場にやってきて、礼服を着ていない人を見つけ、なぜ
礼服を着ないでここに入ってきたのかと問いただし、答えないその人を縛り上げて、暗闇
に放りださせた箇所を見て、しかもその後の結びで「招かれる人は多いが、選ばれる人は
少ない。」という言葉に出会うと、一気に緊張感を持ってしまうのではないでしょうか。
わたしは礼服を着ているかしら。わたしは救われるのかしらと。
「礼服」とは何を意味しているのかは古来からの問いであったようです。古代教会にお
いては「肉の聖性」、すなわち「良き業」と考えられていました。少し時代が進んで4世
紀後半から5世紀前半に活躍したアウグスチヌスはこれを「愛」と考えました。この解釈
は大きな影響を与えたようです。またそれを洗礼と考えたりキリストを着ると考える考え
方がありました。宗教改革時代になると「信仰」をそこに見ました。ルターはキリストま
たは愛を通して働く信仰と考えたようです。現代においてもカトリックは礼服を良き業と
理解しているようですし、プロテスタント教会は与えられた信仰と理解しているようです
。やはりそこでは招かれた人、饗宴に来た人がどのように生きるかが問われているように
思え、わたしたちはこの箇所で緊張感を持つのだと思います。
わたしたちはイエス様によって救われましたが、その救われた私たちはまだこの世で生
活していきます。当然どう生きるかは、またイエス様が望まれているように生きているか
は、問いとなるでしょう。ルターもキリスト者の自由という著作で、キリスト者はキリス
トによって全く自由とさせられたことをまず述べています。その様をルターらしく「キリ
スト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。」と表現して
います。ルターはキリスト者の姿をこのようにだけ規定しているのではありません。さら
にこの世でどう生きるかに関係すると思いますが次のようにも述べています。「キリスト
者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。」と。愛において仕える者と
されているというのです。
わたしたちはイエス様によって救われ、新しくされました。そのとき新しい命に生かさ
れているかどうかは確かに私たちの課題として私たちの前に現れるでしょう。まだ地上に
おいて体をもって生きているのですから、はっとさせられるように生きていることがある
でしょう。そのときどうすればよいのでしょうか。自分の状態を分析して、はっとするよ
うなことをなくすように努力をすればいいのでしょうか。その在り方では私たちの歩みを
命のもとに導くのは無理なことです。キリストのもとに行くこと、キリストがわたしたち
の主語となってくださるようにあること。このことにのみ希望があると思います。キリス
トがもう私たちの贖いとなって死んでくださったことにしっかりと立つこと、そのことが
大切であると思います。だから、わたしはこの礼服はキリストであり、礼服を着るとはキ
リストを着ることであると思うのです。