聖書箇所:マタイ21章33-46節
説教題:本当に欲しいもの
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
- 祭司長、ファリサイ派の人々が欲しいと思っていたもの
今朝の日課は先週の譬えに引き続いて語られます。先週の譬えは、祭司長、ファリサイ派の
人々に対して語られた譬えでありました。神殿で人々に教えておられるイエスさまのところへ祭
司長たちはやって来て、『何の権威でそんなことをするのか』と問いました。イエスさまは彼ら
に『ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか、答えてみよ』と質問を返されます。彼ら
は答えられませんでした。彼らが思い巡らしたのはヨハネの洗礼の由緒ではありませんでした。
どう答えたら自分たちの立場が守れるだろうかと思いめぐらしたのでした。それを受けて譬えが
語られます。今朝は、イエスさまが私たちに問うています。あなたは何を欲し、何を見つめ歩む
のですか、と。私たちは何が欲しいと願うでしょうか。ある人にとってそれは、お金やモノ、形
あるものかも知れません。またある人とってそれは、大切な人との再会や神への信仰といった形
のないものかも知れません。祭司長、ファリサイ派の人々が欲したのものそれは、人々からの支
持、自分の立場を守る後ろ盾でありました。しかし後ろを支えてくれなさそうな人、病人、怪我
人、貧しい人は彼らにとって欲しいものではなかったのです。だから、イエスさまはそんな彼ら
の有様を見て、そうして動いてゆく世界を見て、震えあがるほどに怒ったのです。商売人の台を
ひっくり返し、『ここは祈りの家と呼ばれるべき場所だ』と叫んだのでした。何の権威で偉そう
にしているのかと問われたイエスさまは、彼らに何度も譬えを語ります。それほどまでに怒って
いたのでしょうか。それもあるでしょう。同時にイエスさまは、彼らに悔い改めて欲しかったの
ではないでしょうか。
- ぶどう園は神の国
譬えの内容は、分かりやすかったと思います。結論は皆同じになるでしょう。とんでもない
ことをしでかした農夫たちには、とんでもない結末が待っているに違いないと。ぶどう園とは、
言うまでもなく神の国を表しています。愚かな農夫たちはイスラエル民族を、僕たちは旧約の預
言者たちを、そして息子はイエスさまです。そう置き換えるとぴったりと当てはまります。この
譬えを聞いた人々は、イエスさまがぶどう園…と話された時にピンとくる旧約聖書の箇所があり
ました。第一日課で読まれましたイザヤ書5章です。しかしイザヤ書はぶどう園でできたのは酸
っぱいぶどうであったこと、それは当時のイスラエル民族の有様だと語るのです。ですから彼ら
は、イエスさまが旧約聖書を引用しつつ語っているのだろうと思いながら、まだ聞いたことのな
いその先の物語を聞くのです。『自分たちの先祖が情けなかったこと、その故にぶどう園では酸
っぱいぶどうしか実らなかったことは知っている。そこに、主人が遣わした僕たちがやって来た
、その息子もやって来た、あぁなんということか、農夫たちは彼らを殺してしまったのか。ひど
い農夫たちだ、彼らからぶどう園は取り上げられて当然であろう。』結末を思い浮かべた瞬間、
彼らは気付くのです。これは私たちのことだと。自分たちが語った農夫たちの結末は、自分たち
の結末なのだと。それでも、彼らは欲しいものを変えることはできませんでした。群衆の支持を
得るために、この男を殺さなければならないと、譬え通りに、神の子であるイエスさまを殺そう
と企むのです。
- ぶどう園の主人の思い この譬えに出てくるぶどう園の主人は、何を思い、ぶどう園を用意したのでしょうか。何の
ために、ぶどう園の周り一面に垣を巡らし、その中に岩を掘って搾り場を作り、遠くを見渡せる
見張りのやぐらを建てたのでしょうか。より多く生産できるように、でしょうか。それとも、よ
り効率的に仕事をこなせるように、でしょうか。そのどちらでもありません。そこで働く農夫た
ちが安心して働けるように、垣を巡らしたのです。仕事がうまくいくようにと立派な搾り場を用
意したのです。遠くを見渡せるやぐらは、主人が帰って来るのを待ちわびるためだったかも知れ
ない。ぶどう園の主人は、そこで働く人たちに何一つ欠けることなく備えをしたのです。そんな
ぶどう園を彼らに託し、主人は遠くの国に旅立ちます。新しくできたぶどう園の実りは数年後で
す。数年先の実りを期待して、そこで働く彼らに全てを用意して、主人は旅立ったのです。ぶど
う園の主人の思いを、農夫たちはどう受け止めたでしょうか。一か月、一年は感謝して過ごした
かも知れない。しかし二年、三年と時間が過ぎる中で、あまりに素晴らしいぶどう園を自分のも
のにしたいと思うようになりました。そして、思うだけに留めることができなかったのです。収
穫の時期が来て、主人がぶどう園へ僕を遣わしました。しかし農夫たちは僕を袋叩きにして殺し
てしまったのです。主人はもう一度、より多くの僕をぶどう園へ遣わしました。しかしその僕た
ちも、農夫たちは殺してしまったのです。普通ならもう次はありません。二度目だってありませ
ん。しかし主人は、それでもなお、彼らが悔い改めて自分のもとに立ち返ることを期待するので
す。私の息子ならば…その主人の思いさえ、農夫たちは踏みにじってしまいました。譬えの結末
をイエスさまは語りません。ファリサイ派の人々が代わりに語ります。『彼らは残酷な目に遭う
だろう、ぶどう園は別の者の手に渡るだろう』と。
- 私たちが欲するべきもの
殺され、放り出された息子の姿を、イエスさまは隅の親石に譬えます。今朝の日課で最も大
切な場所はここだと思います。42節『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』エルサレムからゴルゴ
タへと連れて行かれ、十字架に掛けられ殺されたイエスさまの姿が、隅の親石と重なります。人
々が捨てた石が、隅の親石となる。私たちの世界ではあり得ないことです。捨てたものはゴミと
して扱われ、捨てたらもうそこで終わりだからです。私たちは捨てた石のその先を想像しないの
です。転がりながら、削られながら、やがて角が落ち、磨かれ、信じられないほどに美しくなる
石の未来を想定しないのです。私たちの摂理には無くとも、しかし神さまの摂理にはあるのです
。神さまが必要だと据えた石が、他のどんな石よりも重要な場所に置かれるのです。それが隅の
親石です。頭石と言えば、ピンとくるでしょう。教会の頭は、この打ち捨てられたイエスさまな
のです。人々に見捨てられ、たった一人で十字架を背負われたイエスさま。一体誰が、この神の
子の十字架の贖いと、救いとを受け取る資格があるでしょうか。しかしこれは私たちの摂理では
ありません。神さまの摂理です。私たちが自らの罪を悔い改め、真にイエスさまが神の子である
、私たちのために十字架を背負ってくださったと信じる時、その十字架の故に私たちの罪は赦さ
れるのです。日ごとに罪を犯し、日ごとに悔い改め、日ごとに赦される。その歩みを、パウロは
こう語るのです。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走る」ことだと。このマラソンは、譬えで言えばぶどう園で働き、実を
もたらすことです。ぶどう園の実りは、私たちの能力に拠りません。なぜなら、神さまがぶどう
園で必要なものを全て用意してくださっているのですから。私たちはあれができる、これができ
る、ではなく、神さまの意思、『私のぶどう園で働き、実りをもたらしなさい』という神さまの
思いに従順でありましょう。そのことにひたむきに、一生懸命歩みを続けて行きましょう。「神
がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたす
ら走る」この歩みを、共に続けて行こうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。