礼拝説教
エゼキエル18:1~4,25~32、フィリピ2:1~13、マタイ21:23~32
私たちは日常どのように生きているのでしょうか。それぞれに生活するパターンという
か習慣があるでしょう。仕事に行く人、学校に行く人、家庭で過ごす人、様々でしょう。
この教会では今家庭で過ごす人が多いと思われます。そして経験や、教養、また身分のよ
うなもの、家族や友達がその歩みを支えているものと思われます。マンネリ化して退屈に
なった時、自ら刺激を求める行動に出ることもあるでしょうし、そうではなく外から強い
刺激を受けることもあります。その刺激にどう反応するかは個人個人において違うでしょ
うけれど、どう反応するかはそれからの歩みにおいてもとても大切であると思います。
今日の福音書に出てくる祭司長や長老たちも日常の生活の中で大きな刺激を受けました
。それはイエスという人が神殿に来て「売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台
や鳩を売る者の腰掛を倒された。」り、祈りの家であるべき神殿を強盗の巣にしていると
言われ、いわゆる「宮清め」と呼ばれることをされたからです。祭司長は神殿のことの最
高責任者でしたし、長老たちもいろいろなことを決める立場にある人たちですから、神殿
の在り方についての責任をある程度持っていたでしょう。当時信仰生活を守るための習慣
が出来ていました。犠牲をささげるための家畜や鳩を境内で売っていました。それは遠く
から犠牲にささげるものを連れてくるのは大変で、神殿の境内で手に入れることが出来れ
ば楽ですし、神殿にささげる貨幣は世俗の貨幣ではなく、神殿用の貨幣がありました。だ
から両替することが出来れば便利であったのです。そのことはまた祭司長たちの利益にも
なっていたでしょう。それに対してイエス様は宮清めをされたのです。日常の中に投げ込
まれた大きな刺激です。
そこで祭司長や長老たちはイエス様のところに来て尋ねます。「何の権威でこのような
ことをしているのか」と。何の権威でというと、ちょっと宗教的にはいい質問のように思
えます。しかし、それは真実な、真剣な問いではないことがすぐわかります。イエス様は
彼らの心を見抜いておられ、よくされる逆質問をされます。バプテスマのヨハネの洗礼は
どこからのものか、天からか、人からかという内容です。ヨハネの洗礼は人々から天から
のものとして受け入れられていましたが、祭司長や長老はそれを受け入れていませんでし
た。聖書に書いてある通り彼らは自分の身を守るために、「分からない」と答えました。
外からの刺激に対して、真実を求めるというところに立たず、自分たちを守るところに立
っていたのです。
そこで彼らに一つのたとえ話をされます。それは二人の兄弟の話で、父親が兄弟にブド
ウ園に行って働くように言ったとき、兄は「いやです」と言ったのに後で思い直していっ
たが、弟は「承知しました」と言ったのに行かなかったというたとえです。この例えでイ
エス様は祭司長や長老たちを弟のようであると教えられたのです。神様に対していいよう
な顔をしている。祭司長としての働きや皆に重んじられている長老としての働きで、神様
に仕えているように見える。しかし、実際は本当には神様に仕えていないのであることを
示されたのです。それに対して徴税人や娼婦は神様に反している生活をしていたが、ヨハ
ネが来た時に、真実に神様を求めたのだから、祭司長たちより先に神の国に入るのだと言
われました。ここでイエス様が普通兄の方を弟より上に考えると思いますが。祭司長たち
を弟の方に置かれたのも面白いと感じます。
日常の中で刺激を受けたとき、わたしたちはどうあるかはとても大切であると思います
。その刺激に自分を守るように、相対するか。またその刺激を真実に受け止めるかによっ
て、わたしたちの在り方は全く変わっていきます。
今日の旧約聖書の日課を読むと、すべては本人の責任である。先祖がどうこうだからで
はないことを言われ、更に生活が悪くても今悔い改めればよいこと、生活が良くても今神
さまに反すれば悪いことそのことを言われ、さらに神様は悔い改めて人々が新しい命に生
きることを求めておられることが示されています。その意味では永遠に今が大切であると
思います。そうするとよく出てくるのは好き勝手な生活をして、死ぬ前に悔い改めればい
いではないかという考えです。でもその人たちは勘違いしています。好き勝手な生活がこ
の世において幸いな生活かというとそうではありません。神さまのまことの命に生かされ
ることこそ、この世の命においても幸いな時なのです。
最後に永遠の今というと、緊張感ばかりの毎日ではないかと考えられるかもしれません
。確かにある意味では緊張感のある生活でしょう。しかしそれはストレスに満ちた、何か
に支配されているような緊張感の毎日ではありません。使徒書からパウロの助けを借りま
しょう。今日の日課の最初に「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励ま
し、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」ここの霊による
はキリストによると同じ内容であると考えてもいいと思います。すなわちここにあげられ
ていることは、自分自身がそれを持つことではなく、キリストからくるものです。キリス
トに導かれ、キリストに結ばれているならこのことが与えられるのです。キリストに導か
れればキリストの特質がわたしたちにも及びます。キリストは神に対しても人に対しても
謙遜なへりくだった方です。それが今日の日課の中によく表れています。そして神に従順
です。そして隣人に心を向けられる方です。そしてこのことは努力目標や、自分の力です
るのではなく、キリストに結びつくことによって、わたしたちに与えられるものです。マ
タイ福音書の11章に「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学び
なさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と言われています。安らぎが得
られるのです。またヨハネ福音書15章のところにはブドウの木のたとえを話された後
、11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたが
たの喜びが満たされるためである。」とあります。イエス様につながることはそこから喜
びが来るのです。
私たちはイエス様に結ばれていること、そしてその光を受けて歩むこと、そこにわたし
たちの心を向けていきましょう。