2023年9月24日「埃まみれの服の価値」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:マタイ20章1-16節
説教題:埃まみれの服の価値
  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  8月の終わりから9月初旬にかけて、宇部教会、下関教会でそれぞれ葬儀が執り行われまし
た。一人は、長らく教会で奉仕された方。もう一人は、80年ほど前に教会で洗礼を受け、以来
教会から離れてしまった方。葬儀は神さまの出来事ですが、そこに携わるのは私たち人間ですか
ら、葬儀の色味も違ってきます。司式をする私も、思い出が溢れてしまう、そんなこともありま
す。今年、天の国に見送った先輩牧師から、以前こう言われたことを思い出します。「牧師は葬
儀で泣いちゃだめだよ。葬儀は神さまの出来事だから。そこで語られるのは、神さまの言葉だか
ら。」金言と思いこれまでやって来ましたが、まだまだその境地にはたどり着けそうにありませ
ん。悲しいから涙が出てくる。寂しいから言葉に詰まる。神さまの出来事なのだから…そう思っ
ても、貫き通せない。しかし、今日の福音書日課を読んで、やはり「神さまの出来事」という視
点は大切なのだと改めて思いました。私たちは長く働けばたくさんお金がもらえて、短く働けば
あまりお金がもらえない、そういう世界を生きています。もちろんそれだけじゃないにせよ、ど
れだけ時間を掛けたか、そのことが価値を生む世界を知っています。だから今日の日課を読むと
、あっと驚くのです。何故なら、12時間働いた者も、1時間しか働かなかった者も、同じだけ
の賃金を得たのですから。
  福音書日課の始めに、「天の国は次のようにたとえられる。」とあります。この言葉を私た
ちは見落としてはいけません。何故なら、これは私たちの世界に起こる出来事ではなくて、天の
国に起こる出来事の譬えなのですから。どうしても働いた時間に応じた報酬というこの世界の価
値基準が登場してしまう。しかしその都度この最初の言葉に戻りましょう。『これは私たちがや
がてたどり着く天の国の譬えなのだ』と。さて、天の国の譬えは次のように語られます。ある家
の主人が、所有するぶどう園で働く雇人を探しに朝早く広場に行った。6時頃としておきましょ
うか。するとそこには仕事を求めて日雇い労働者たちが既に待っていた。主人は一日に1デナリ
オンの約束でぶどう園の仕事に就かせた。1デナリオンとは先週も出て来ましたが、一日の労働
に対する対価です。現在の貨幣価値で6,000円程度、1デナリオンで10数切れのパンを買
うことができたと言われています。主人は9時ごろ再び広場に行ってみると、そこには仕事を求
める人々がいました。彼らにもぶどう園での仕事を約束し、送り出します。12時、15時と三
時間おきに広場を見に行くと、そこには仕事に就くことのできなかった人たちがいました。主人
は彼らも同じようにぶどう園に送り出しました。日暮れも近づいた17時、主人は再び広場を見
に行きました。これまで3時間おきに広場を見に行っていた主人です。18時に仕事が終わるの
だとすれば、もう一時間もない。どうして広場に行ったのでしょう。誰か働きたい者がいるなら
ば、その全員を働かせてやりたい。主人の理由は明白です。17時に広場にいた人々の具体的な
理由は様々でしょう。病気や、のっぴきならない事情、家族の看病をしていたかも知れないし、
朝寝坊したのかも知れない。しかし、みなに共通する理由がありました。それは、その日の賃金
を得ることができなかったということです。だから彼らは広場に集まっているのです。そしてそ
の最後の者まで、主人はぶどう園で働きなさいと送り出しました。するとすぐ、仕事を終える時
間が訪れました。賃金は最後に来た者から支払われることになりました。最後に来た者は、一日
の日当分、1デナリオンを受け取りました。それを見ていた最初に来た人たちはもっと多くもら
えることを期待しました。しかし自分の順番が来て賃金を受け取ると、そこには1デナリオンし
かありませんでした。彼らは主人に対して抗議します。どうして最初に来た自分と、最後に来た
者が同じ賃金なのだ。おかしいじゃないか。さて、本当におかしいでしょうか。このぶどう園は
ブラック企業でしょうか。しかし、主人は何も嘘をついていないのです。

もう一度、この言葉を聞きましょう。「天の国は次のようにたとえられる。」これは天の国の
譬えです。私たちの内、天の国に行ったことのある者はおりません。私たちは逝きし者を天の国
に送り出しますが、天の国とはやがて来る約束された神の国です。終末が訪れるその日、私たち
は一斉に天の国に迎え入れられると信じているのです。しかし天の国を先んじてこの世界に現わ
された方がおりました。それがイエス・キリスト、神のひとり子です。イエスさまの歩みとはま
さにこのぶどう園の主人の歩みそのものではないでしょうか。虐げられている者を助け、涙を流
す者を喜ぶ者に変え、痛む者に癒しを、悲しむ者に希望を伝える歩み。最後の一人にまで、神さ
まはあなたを見ておられ、愛しておられると伝える歩み。そのことが最も現れるのが、十字架に
掛けられたその瞬間です。先日の葬儀でも読まれましたが、出棺の際必ず読まれる聖書箇所があ
ります。ルカによる福音書23章「十字架にかけられたひとりは言った。イエスよ、あなたの御
国においでになるときは、わたしを思いだしてください。するとイエスは、「はっきり言ってお
くが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」天の国に迎え入れられるに必要
なことは、12時間働くことでも、1時間しか働かないことでもありません。どんな些細な働き
であろうと、そのことの故に天の国に迎え入れられるということはないのです。私たちの業が、
救いに繋がるのではないのです。私たちが救われるのは、ただただ恵みに拠るのだと、十字架上
のイエスさまは伝えます。横にいたのは、十字架に掛けられるだけのことをしでかした犯罪人。
彼らのたった一言、『私も一緒に連れて行ってください』この言葉の故に、彼らは天の国に迎え
入れられる。それが天の国への片道切符となる。どうしてこの箇所が葬儀の最後に読まれるのか
。送り出される者がどれだけの働きを担ったか、みな分かっている。しかし、そうであっても、
神の国に迎え入れられるのは神さまの恵みだと、どこまでも神さまに拠り頼んでゆくのです。教
会に身も心も命さえも献げた尊いかたの生涯も、80年教会の外で生きた生涯も、どちらも救わ
れるのだとしたら、それはもう人智を超えた神さまの恵みという他ないのです。
  最後に、では私たちは朝から働けばよいのか、最後の一時間だけ働けばよいのかと皆さまを
困らせてはいけませんから、付け加えておきたいことがあります。結論から申し上げますと、ぶ
どう園で一生懸命働いた12時間も、不安と共に過ごした12時間も、どちらの12時間も神さ
まはご覧になってくださっているということです。12時間働くことのできた者は、最後に来た
者よりもはるかに先に仕事の安心を与えられていたのです。教会と出会うのにもそれぞれタイミ
ングが異なります。幼児洗礼を受けた者もあれば、病床洗礼を受けすぐに天へと旅立つ者もあり
ます。どちらの方が良いか、結論は出ています。与えられる恵みは同じです。聖書はどこを切り
取っても恵みは同じだと言うのに似ています。何でもできると思っている者には、『小さき者で
あれ』と語るのが聖書です。反対に、何もできないと思う者には、『あなたは価高い』と語るの
が聖書です。目線の先は同じです。神の恵みに拠り頼んで生きてゆきなさい、と。
それぞれのタイミングで、皆さまは神さまと出会われた。教会の中で一生懸命働き、埃まみれ
となったあなたの服を、外の世界で転がり続け埃まみれとなったあなたの服を、神さまが『さぁ
、私のもとに来なさい』と抱きしめてくださいます。神さまの恵みに拠り頼んで、神の国で働く
幸いに感謝して、歩み出して行こうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。