2023年9月17日「7回まで」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記50:15~21、ローマ14:1~12、マタイ18:21~35

 
 今日の説教題を「7回まで」としましたが、すぐに気付かれるように、これはペトロの
イエス様への問いから来ています。このペトロの言葉からもわかるように、今日のテーマ
は赦しです。もう少し広めれば赦しの反対の裁きまでがテーマになります。赦しや裁きは
神様の姿の中心的なものですが、わたしたちが生きていくときにおいてもとても大きな問
題です。クリスチャンになって、赦すことに悩んだり、裁く心に悩んだりした方、またし
ている方は多いのではないかと思います。私自身にとっても、この赦しや裁きは大きな問
題としてあります。
 少し前から私の信仰の中に入りつつあったのですが、今回の日課を黙想するときに、大
きな気づきがありました。それは神様や、イエス様が主語になっているか、わたしが主語
になっているかということです。わたしが生きているのですから、わたしが主語になるの
は普通で、皆そのように生きていると思います。長い歴史の歩みの中で、専制主義や、暴
力的な支配者によって、わたしが主語であることが奪われてきました。歴史の発展の歩み
は支配者が主語であることから私が主語で生きることが出来るようになっていったことで
あると思います。では信仰の世界ではどうかという問題になります。確かに神様が暴力的
で、支配的で、無理やり神さまが主語とさせられ、わたしが隷属させられる世界もありま
す。しかし今神さまや、イエス様が主語であることに気付くということはそのような暴力
的な支配的なものではありません。
 今日の聖書の日課から見ていきましょう。
 旧約聖書は有名なヨセフ物語の最後の部分です。ご存知のように、兄弟の嫉妬によって
ヨセフは奴隷としてエジプトに売られていきますが、不思議な導きにより、エジプトの宰
相となり、飢饉に相対して人々を飢饉から救うという出来事の中にあるものです。これは
神様がアブラハムに対してその子孫を増やすと約束されたものが、続いていること、約束
が守られていることを示すものでもあります。その中で面白い人間的なものがそこに顕わ
れます。それは父親のヤコブが死んだとき、ヨセフの兄たちは不安を抱くのです。今まで
は父親がいたから、自分たちをやさしく扱ってくれたが、父親が死んだ今、わたしたちへ
の恨みが生じ、わたしたちを罰するかもしれないという人間的な恐れです。まさに自分を
主語として立っている姿です。一方ヨセフはどうであったか。ヨセフも自分を主語にして
生きていたことがあったでしょう。そのとききっと自分を売った兄弟を憎んでいたでしょ
う。奴隷として売られた家で、主人に重く用いられていたのに、主人の妻のよこしまによ
って、牢に入れられるようになってしまう。そこでも重んじられ、牢に入ってきた王に仕
える人の夢を解いてやったのに、自分が助かればもう忘れてしまっている。これらの歩み
の中できっとヨセフは自分の不幸を嘆き、相手に怒りを感じていたでしょう。しかし見て
見れば自分が宰相にさせられ、飢饉を乗り越える働きを与えられた。この経験から自分の
身に生じたことは神様がされたことで、自分の飢饉のときに民を助けることをさせられる
ためであった。そのような神様の働きに目が行ったとき、兄弟たちへの怒りは解決し、神
様の思いの方に立つようにされていたでしょう。ヨセフにとってこのときは神様が主語と
なっていたのです。だから恐れる兄弟にあのように答えることが出来たのでしょう。
 福音書に入って見ましょう。ペトロにとっても赦しは大きなテーマであったのでしょう
。そこでイエス様に尋ねます。兄弟に対して何回赦せばいいのか、7回までですか、と。

赦すことの大切さをイエス様は教えておられたでしょう。だからペトロも赦すことを考え
ていました。腹が立つけど赦してやらなければならない。そうイエス様が言われるのだか
ら。何回まで我慢したらいいのか。神様は同じ罪を3回まで赦してくださるとあるから、
それぐらいでいいか、いやもっと言ってほめてもらおうと、完全数の7回までですかとペ
トロは言ったと思います。このときペテロの赦すということの主語は自分であったと思い
ます。腹が立っても赦す、しかも7回まで赦すんだと。
 それに対してイエス様は7の70倍赦しなさいと言われました。これは普通無限大に赦し
なさいと解釈されていますが、今回私はそれだけではなく、イエス様は神様のところに立
ちなさいと言われたのだと気付きました。すぐその後に家来を許した主人のたとえ話をさ
れ、1万タラントンの負債を赦すことを示されました。これは神様の赦しの大きさを示し
ていると思います。神様は時には裁きを与えられる。しかしそれも人を本当に生かすため
であり、赦すこととして自分の子を十字架にかけるまでの赦しを与えられている。その神
様の人を生かそうとされるところに立ちなさいと教えておられると思います。
 使徒書を見てみましょう。自分を主語、中心にして生きていると、何だあの人は信仰で
あんなことも分かってないのかと馬鹿にしたり、あんなことをしていると裁いたりしてし
まいます。でもパウロは言うのです。神様やイエス様はそれぞれをそれぞれに応じて育て
ていってくださる。生かしていてくださる。その神様を無視して、自分の目で裁いたり、
馬鹿にしたりするとは何事かと。イエス様を主語にして生きるのだ。また死ぬのだ。イエ
ス様はこうしておられるだから私もこうするのだと。イエス様を信じる者の歩みは自分を
主語にして歩むのではなく、イエス様を主語として歩むのだと。