2023年9月10日「思いを合わせ、心を合わせ」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:マタイ18章15-20節
説教題:思いを合わせ、心を合わせ
  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  ある中学生の少年グループがコンビニで万引きをしました。しかしお店に見つかることはな
く、彼らは盗んだお菓子や飲み物を公園で広げ、飲み食いしました。後日、彼らは再び万引きを
しました。するとまた見つかることなく、彼らのカバンは盗んだ品物で一杯になりました。そう
して何度か万引きを繰り返しているうちに、とうとう彼らは捕まってしまいました。お店の人は
彼らの親を呼びました。仕事中に早退して迎えに来た親は、息子の顔を見るなり頬を叩きました
。二人目の親が迎えに来ました。息子の顔を見るなり、泣き崩れてしまいました。三人目の親が
迎えに来ると、その親は息子を『怖かっただろう。』と言って抱きしめました。その光景を見た
別の親が言いました。『この子は万引きをしたんだ。悪いことだと分からせないといけない。一
発叩かせてくれないか。』しかしその少年の父親は言いました。『この子の親は私です。息子を
殴らせるわけにはいきません。』たとえ話です。このたとえに出てくるどの親の対応も、私たち
は否定することができないのではないでしょうか。どうすれば良かったのか、その判断は人によ
って違います。コロナ禍以降、自らの正義を唯一の正義だと錯覚してしまう現象が取りざたされ
ました。様々な出来事に自粛ムードが漂う中、『自粛警察』という言葉が生まれました。教会の
中にも様々な問題が起こります。2000年前、最初期の教会では、『救いはユダヤ人に与えら
れているのか、異邦人にも与えられているのか』ということが大きな問題でした。『割礼は受け
るべきなのか、受けなくても良いのか』ということも、使徒言行録を読むと問題と意見が割れて
いたことが分かります。もう少し後の時代になると、『洗礼は全身を浸からせるのか、そうでな
いのか』ということや、『聖餐はパンだけでいいのか、ぶどう酒は含まないのか』、『子供への
洗礼は認められるのか』等、正しさを巡る議論には枚挙にいとまがありません。そしていくつか
の問題は、“これ”というただ一つの解決を見出さずに、現代でも議論は継続されています。聖書
の言葉、神の教えや掟、その結論を自分たちの中に見出そうとするならば、今朝の福音書日課の
ような結論を迎えることがあるでしょう。訣別、追放、教会の長い歴史の中で、そういったこと
は当たり前に起こってきました。私たちは特に、そのことを忘れてはなりません。何故ならマル
ティン・ルターもその一人だったからです。
1521年、ヴォルムス帝国議会においてルターはローマ・カトリック教会からの破門と、帝
国からアハト刑という刑を言い渡されます。これは、生命の保証をされないというもので、ルタ
ーを殺しても誰も罪に問われないという刑でありました。ルターは自由に出歩くことができなく
なりましたが、しかしそのおかげで、ヴァルトブクル城において僅か3カ月の間に聖書をドイツ
語に翻訳したのです。ルターにとって、またルターを支持した人々にとって大きな痛みであった
教会からの追放ですが、そのことがあったから多くのドイツ国民が聖書を読むことができるよう
になったと考えると、実に不思議です。人間と人間が交わる以上、問題は起こります。しかし神
さまがその問題をどう解決なさるか、そのことは私たちには想定できないのです。結論は、神さ
まに委ねてゆく。今朝の日課の直前、18章10節には迷い出た羊の譬えが記されます。迷い出
た1匹を、羊飼いが探しに行くのです。1匹が迷い出てゆくのを、99匹は黙って見ていたでし
ょうか。『そっちへ行くと危ない、道に迷うぞ』と注意したかも知れない。しかし聞き入れなか
った1匹は、迷い出たのです。羊飼いが探しに出て行って、残された99匹はどう思ったでしょ
う。自業自得だと思ったでしょうか。それとも、『私が迎えに行く』と言い残した羊飼いの背中
に思いを託し、見送った羊はいなかったでしょうか。いるとするのが、聖書の読み方ではないか
と思うのです。いなかったとしても、祈る者に変えられていったと信じるのが聖書を学ぶと言う
ことだと思うのです。結論は神さまに委ねてゆく、今朝はこのことを共に聞いてゆきましょう。

教会で実際に問題が起きたらどうしろと聖書は語るでしょうか。今朝の日課を読む限り、まず
人目のないところで注意しなさいと言います。忠告と書かれていますが、これは決して『責める
』とか『責任追及する』と言う言葉ではありません。『説得』することを意味します。そして説
得が上手くいけばそれでよし、上手くいかなければ一人か二人連れて来なさいとあります。注意
したいのは、『あなたの味方を一人か二人連れて来なさい』とは書かれていないということです
。連れてくるのは対話の証人であって、あなたをサポートするために連れてくるのではないので
す。対話する二人のために連れてくるのです。もしこれが裁判であれば、証人が多ければ多いほ
ど罪は重くなります。しかしイエスさまはそのような『追放するための算段』を教えているわけ
ではないでしょう。教会でも、人数が増えれば万事順調ということはありません。船頭多くして
船山に上るということもよくあることだと聞きます。どうしてでしょうか。皆、聖書に聞き従っ
て歩んでいるのに、どうして問題が起こるのでしょうか。
私たちは同じ神さま、同じ教えを信じています。しかし誰一人として、神さまをここに連れて
くることも、同じ神さまの御姿を見ることもできません。もしそれができてしまったら、人間の
作りだした偶像ではないでしょうか。私たちは実のところ、本当に全く同じ神さまを信じている
とは言えないのかも知れない。しかし私たちは、どうしてか一つ所に集められている。生まれも
育ちも、趣味も性格も、年齢も性別も異なる隣人と共に集められている。私たちが一つ所に集め
られているのは、決して、私が信じている神さまの確かさを担保するためではないのです。隣人
を通して語られる様々な言葉、出来事、それが私にとって神さまの出来事とその時、到底思えず
とも、神さまが私たちにご自分を示すためなのではないでしょうか。ルーテル教会がその歩みの
一歩から確認してきた『万人祭司性』、それは全ての人に神さまが語り掛け、招かれることを意
味します。神の前に於いて私たちは横一列であるということです。だから今日、私たちは等しく
み言葉の恵みを受け取っているのです。説き明かす者も、奉仕するものも、耳を傾ける者も、同
じ恵みに与っているのです。その恵みは、『あなたたちは隣人に思いと心を向け、祈りなさい。
そして最後は私(神さま)に全て委ねよ』と語っているのではないでしょうか。
  教会に起こる様々な問題、私たちの結論には限界があります。時にそれが、社会の仕組みと
等しく、追放に及ぶかも知れない。しかし教会と社会は同じではありません。教会の答え、より
頼むべき結論があります。ルターや、ルターの思考に賛同した全ての人にとって大きな痛みであ
った教会からの追放、人々との交わりの喪失を、神さまは恵みに変えてくださった。別離さえ、
神さまの手に掛かれば恵みに変えられる。私たちがより頼む結論はここにあるのではないでしょ
うか。万引きした少年を迎えに来た父親。私たちは万引きを肯定しないけれど、後悔と涙に誰か
が沈むとき、神さまが『怖かっただろう。』と抱きしめてくださることをいつまでも祈りたいの
です。迷い出た1匹を案じ、探しに行くと言ってくださる羊飼いに希望を置いてゆきたいのです
。私たちでは想像も想定も出来ない神さまの恵みが、これからも私たちには与えられ続けて行く
。今日共に与えられた神さまの恵みに、心から感謝いたします。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。