2023年8月27日「イエスを主として」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ51:1~6、ローマ12:1~8、マタイ16:13~20

 
 聖書はわたしたちの救いを記している書であると言えるでしょう。創世記12章のアブラ
ハムを召しだされたときから、神様が人類を救おうとされた歩みを記していると言えます
。人間は神様に似せて人格を持ったものとして創造されたので、操り人魚のようではない
ので、その歩みは複雑になっています。子育てをされればよくわかるのですが、人格を持
っている子供は親のゆうとおりに育つわけではありません。そこに子育ての葛藤がありま
す。親は子供が豊かに育ち幸せな人生を送ってほしいと願うのですが、その子の持ってい
るもの、社会との関係、様々なものがあって、親の思うようにはいきません。その時、親
の愛が感じられると、子供は様々な中にも、豊かに成長してゆく助けになります。
 人類の救いに関しても同じようなことが言えるでしょう。神様は人類が原罪から解放さ
れて真の命に生きるように願っておられます。そこでアブラハムを召し出し、人類との関
わりを始められました。祝福を与え、約束をし、歩まれます。しかし人格を持った人間は
失敗を犯します。そのとき神さまは手を差し伸べられます。また、人間には自然の力や、
他の国の力が襲ってきます。その時にも神様は道を整え、助け出されます。その最大のも
のがエジプトとゆう国の力で奴隷とされていたエジプトからの脱出の出来事でした。
 神様は人間が生きるべき方法、道を示すために、十戒を中心とした律法を与えられまし
た。それによって命の道を知ったのですが、原罪の中にある人間はそれを守って生きるこ
とに何度も失敗してゆきます。それでも神様は手を差し伸べられます。当然、律法から外
れて生きるとき、困難が与えられました。それでもその時も手を差し伸べられたのです。
神様の人類に対する愛を示されたのです。この最大の出来事がバビロン捕囚とそこからの
解放でした。今日の旧約聖書の日課はその様バビロン捕囚からの解放、故郷への帰還に関
して述べられているところです。
 この出来事でも、神様の愛を受け取れない、気付かない人間に神様は次の最終的な愛の
行為をされます。それは独り子をこの世に人間としてお送りになることでした。神のみ子
はこの世に来られ、イエス様として活動されました。その出来事が、福音書の前半に示さ
れています。マタイ福音書ではイエス様が洗礼を受け、荒れ野での試みを受けた後
、4:17に「そのときから」とイエス様の歩みが示されています。「そのときから」、そ
の歩みが示されていることの最後の部分、最高潮の部分が今日の福音書の日課の箇所です
。イエス様は神様の慈しみ深い御心を表わされ、痛みの中にある人たち、障害の中に生き
ている人たちをいやされ、仲間外れにされている、罪人とされた人達のところに行かれ、
解放を与え、また神さまのみこころを人々に教えられました。それは自分を迫害する者の
ために祈りなさいという、愛に満ちた教えでした。それを目に見える形で神の子として示
されたのです。そのことを受けて今日の福音書の日課はペトロが「あなたはメシア、生け
る神の子です。」と信仰告白するところなのです。イエス様はこの告白を喜ばれ、ペトロ
に祝福を与え、またペトロを岩と呼び、その上に教会を立てるという大きな働きに召され
たのです。このペトロの信仰告白は、イエス様が見える形で活動されたことの最高の結果
であったからです。
 でも皆さんがよくご存じのように、福音書はこれで終わりではありませんでした。まだ
人間には解決すべきことがあったからです。福音書はイエス様の次の歩みに移ります。そ
れは16:21の「このときから」という言葉で始まることからも明らかです。その歩みは
ご存知のように十字架への歩みでした。それは人間の中に残っている原罪、どのような立

派なものを見てもまだ残っている原罪、自分をえらくしようとする、上に登ろうとする、
自分中心な心です。それが残っていることは、この告白をしたペトロが、イエス様が受難
の話をしておられるのにだれが一番偉いかと話をしていたことからも明らかです。まだ原
罪からの解放、自分の肉に死ぬこと、イエス様の十字架の贖いの出来事が必要であったの
です。
 今日の使徒書はこれを受けての内容です。先週の日課、今日の日課の前の11章に、不従
順と憐れみが結びつけられて示されたところです。すなわち私たちの救いは全くの神の愛
によるもの、憐れみによるもの、わたしたちの中には一切それを受ける資格はなかったの
に、ただただ、神様の憐れみによって救いへと導かれたのだということが示されていまし
た。そこには人間の深いところにある、原罪、違った表現で言えば誇りが取り去られるも
のでした。そのことを受けて今日の使徒書の日課があります。それは12:1に「こういう
わけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」という言葉があり、こ
れから勧めることは「神の憐れみ」のもとにあっての勧めであることが示されているので
す。もう、神様に認めてもらうためにする行為ではなく、すでに神さまに認められている
、しかもそれは全く自分の方にそうされるゆえんがあるのではなく、全く神さまの憐れみ
のもとにある、そこにある行為であるというのです。あのルターがキリスト者の自由で述
べた二つの命題。キリスト者はすべてのものの上に立つ主人で何ものにも支配されないと
いう命題と、二番目のもの、キリスト者はすべての人に従う僕であって、すべての人に仕
えると言った二番目の命題の生き方を示しているのです。そこには一番目の命題にある、
すべても物から自由にされているということがあるのです。その憐れみのもとにあって
、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」と勧めています
。そしてこの憐れみの中にある自由な人は人々の集まりにおいても、自分を過大評価はし
ないし、人々の中で、それぞれの人を大切にし、それぞれの与えられた賜物によって生き
ていくようにと勧めています。