2023年8月20日「主よ、ごもっともです」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ56:1、6~8、ローマ11:1~2a、29~32、マタイ16:21~28

 
 今日与えられている日課は、異邦人の問題、選びの問題が示されています。選びの問題
はときどき私たちを混乱させるものともなります。わたしたちにとって良いと思われるも
のへと選ばれた者は感謝の心を持ちますが、しかしそうではない、自分にはマイナスと思
えるものに選ばれた者、そのようなものを与えられた者は、やはり選びに対して疑問を持
つでしょう。
 多分多くの人たちは今日の福音書におけるイエス様の態度、カナンの女に対する態度を
見ると、イエス様に対するイメージからして混乱させられるのではないでしょうか。助け
を求めている異邦人、カナンの女に対して、3度も拒絶されているのです。その理由は彼
女が異邦人の女だからというのです。異邦人の問題、大きく言えば選びの問題、このこと
は一度深く考えてみる必要があると思います。選びの問題として考えれば、なぜ自分は男
に生まれてきたか、また女に生まれてきたか、更に外観と内面の性に違いがあるように生
まれてきたか、自分に障害があるように生まれてきたか、人生において、なぜ、自分に困
難が与えられたかなど多くのことがあるでしょう。
 異邦人の問題を考えてみると、ユダヤ人は自分たちが選ばれた民、選民としてあること
に誇りを持ち、異邦人と区別をしてきました。異邦人は律法の外にいるので、汚れた者と
みなされ、神殿においても限られたところにしか入れませんでした。その中にあって今日
のイザヤ書の日課の箇所は、異邦人を受け入れる箇所です。でもそこには旧約らしい条件
があります。主のもとに集ってきた異邦人が「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、
安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら」と条件を付け、それ
ならわたしの聖なる山や祈りの家に連なることを許すと言っています。この箇所は第3イ
ザヤと言われている個所で、第3イザヤは異邦人を受け入れる方向にありました。
 今日与えられた使徒書の箇所は無論パウロが記したものです。パウロは自分は異邦人伝
道に召されたものだと理解していましたから、異邦人を受け入れる者です。その中で今日
の箇所はなかなか困難さを持ったところでもあります。そこには不従順と憐れみという言
葉が関連付けて出てきます。選びの中にいなかった異邦人は当然神さまに対して不従順で
した。しかしユダヤ人が不従順であったために異邦人が神様の憐れみを受けた。一方、異
邦人に神様の心が行ったためにユダヤ人は不従順になったが、それはユダヤ人もまた神様
からの憐れみを受けるためでもあった。そしてまとめて、神様はすべての人を憐れむため
にすべての人を不従順な状態に置かれたと述べているのです。これから考えると、憐れみ
による救いこそ人々にとってまことの救いになるのだということが分かります。なぜかと
いうと、憐れみによる救いは信仰による救いと同じ内容を持っていますが、信仰による救
いは行いによる救いによってどうしても生じてしまう誇りを取り去ってくれ(ローマ
3:27)、真の救いになるので、神様はこのような複雑な形をとられたのだと分かります

 もう一つゆうならパウロはもう救いの初め、選びのはじめから救いは異邦人にも行くこ
と、神さまのみこころはそうであることを見ていました。それは創世記の12章1~3に人
類の救いのためにアブラハムを選ばれた個所ですが、そこで神様はアブラハムを祝福され
ると同時に、彼は救いの源となること、そして彼によって地上のすべての氏族が祝福に入
ると示されていて、そのことを受けてパウロはガラテヤ3:8に異邦人は皆祝福されると示

しています。もうアブラハムの選びの時に、多くの人には隠されていたけれど異邦人の救
いは約束されていたのです。
 福音書に入って見ましょう。イエス様はティルスとシドンの地方に行かれたとあります
。異邦人の地方です。そこにカナンの女、すなわち異邦人の女がいました。悪霊に苦しめ
られている娘を持っている母親でした。イエス様のところに来て助けを求めます。しかし
イエス様は無視されました。弟子たちはイエス様のところに来て女がうるさいから追い払
ってくださいと頼みます。言いぐさがひどいですね。うるさいから頼みを聞いてやって早
く追い払ってくれというのです。それに対してもイエス様は拒絶されました。「わたしは
イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」というものです。すな
わち選びの問題が出てきます。それでも女は懲りずにイエス様のところに来てひれ伏して
助けを求めます。それに対して3度目の拒絶をイエス様はされます。「子供たちのパンを
取って子犬にやってはいけない」というものでした。当然、子供はイスラエルの人々を示
していますし、子犬は女の人すなわち異邦人を示しています。イエス様は神様の選びのと
ころに立たれているのです。自分の感情ではなく、神さまのみこころに立たれたのです。
それに対して女は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑
はいただくのです。」と答えました。女は目に見える現実、イスラエルの選ばれた民と、
異邦人の自分。神はイスラエルを選ばれたという目に見える現実です。しかし、それと同
時に、目には見えない隠された現実、神様の恵みはすべての人に及ぶものであるという目
に見えない、一見隠されている現実です。それを見ているのです。目に見える現実を受け
入れつつ、それを越えた神さまのみこころを見、それに信頼したものです。女の言葉はそ
れを示しています。イエス様はその心を見、神様のすべての人に及ぶ恵みを見た信仰を誉
められ、その願いをききとられました。このことを見ると、イエス様はこの歩みにおいて
、女を拒絶されることだけに立つのではなく、この女の心を育まれたと言えると思います

 私たちがいろいろな現実に出会うとき、特にそれが自分にとってはマイナスに思える現
実に出会うとき、その現実に怒り、絶望するのではなく、その目に見える現実の底に目に
見えない神さまの恵みがあるその現実を見て、歩むこと、目に見える現実を受け入れつつ
、かつ目に見えない希望を見て歩むことの大切さが今日の日課には示されていると思いま
す。