2023年7月16日「おのずから実るもの」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ55:10~13、ローマ8:1~11、マタイ13:1~9、18~23

 
 今日の福音書の日課は有名な種まく人のたとえとその説明の箇所です。4つの地に落ち
た種のたとえです。
 聖書は奥深いもので、わたしたちは気付かずに読み過ごしていることが多くあります。
だから何度でも読むと、そのたびに新しく気付かされることがあります。この例えの話で
この度気付かされたことがありました。わたしはこの例えの説明のところで、マルコ福音
書では4:14に「種をまく人は、神の言葉を蒔くのである」とあるので、種は神の言葉と
理解し、そのことが心の中にありながら、種がまかれる地が4種類ある。それは種を受け
取る人間の側、その心の状態であると考えて読んできていました。19節に「心の中にまか
れたものを奪い取る。」とありますから、蒔かれたところは心とあるのですから、そのよ
うに理解できると考えていました。ところが地区の牧師会の時、次の日曜の日課の勉強会
をしている時、発表する後輩の牧師がこの種は、すなわちまかれるものは人、すなわち人
間であると説明したのです。私えっと思って質問したのです。でも、聖書の箇所をよく読
むと、そこには「道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」とあります。後輩の牧
師の言うことのほうが正しいのです。帰って註解書を見てもやはり、種とは人のことであ
ることが示されていました。
 こう気付くと、この箇所は少し違って見えてきます。道端のようなところにまかれる人
、生まれる人と言ってもいいかもしれません。石地にまかれる人、茨の中にまかれる人。
よい土地にまかれる人。こうなると、どこに生まれるかでその人の状況が左右され、その
人自身の責任を問うことはむつかしくなります。確かに、東大に合格する人は裕福な人の
子が多いと言われています。裕福な人の子のほうがより高い教育というか、塾に行ったり
して勉強体制をとれるからです。
 道端にまかれた人とはどうゆう人でしょうか。何かに追われていて、霊的なこと、心の
ことに目を向ける余裕のない人と言えるでしょう。生活に追われていたり、地位や名誉に
追われていて、心に目を向ける余裕のないところに生きている人たちと言えるでしょう。
では石地はどうでしょうか。パッとはやるけれど、すぐに終わってしまう。この世的に見
れば、芸能界とか、食堂やレストランなど水商売と言われるものがそうでしょう。それは
人の人気に左右されるものです。自分の中にしっかりとした根を持たず人の目ばかりを気
にしているところでしょう。茨の中に落ちた人はどうでしょうか。霊的なもの以外のもの
がその人を支配してしまうのです。中心的なものは人の欲でしょう。富や名誉に対する、
また異性に対する欲でしょう。
 ではこの3つの地に落ちた人たちはもう完全にダメなのでしょうか。イエス様は運命論
的に、このような人たちはだめな運命の中にあるのだから、信仰的に言えば神さまの意志
の中にあるのだから、救われることのない人たちだということを言いたいのでしょうか。
よい土地の方に移ることはもうできないのでしょうか。罪人と言われている人たちと食事
をしたり、痛みの中にある人たちをいやされた方、このために来たと言われるイエス様で
すから、この人たち、3つの土地に落ちた人たちは完全にダメな人たちであるとは言われ
ないでしょう。多くの実を結ぶよい土地を示されたのですから、その土地への招きもきっ
とあるはずです。

 このことを見るためには今日の使徒書パウロの書簡ローマ書の箇所を見ると理解しやす
いかもしれません。ここには霊と肉のことが書かれています。「霊」はローマ書において
「イエス・キリストにある」と同じとみていいと思います。また「肉」は生まれながらの
原罪を持った人の状態とみていいと思います。そして「肉の思いは死であり、霊の思いは
命と平和である」と言います。肉はたとえで言えば3つの土地の状況と言えます。肉にあ
るときはどのようにしても死なのです。7章のところで律法に相対しても肉にあるときは
絶望の状況であることをパウロは告白しています。霊はたとえではよい土地であると言え
ます。すなわち「イエス・キリストにある」時は良い土地であり、おのずと多くの実を結
び、命と平和なのです。
 そして3つの土地とよい土地の関係においてパウロは2節で「キリスト・イエスによって
命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と言い、3つ
の土地、すなわち肉の状況からよい土地へ移ることはキリスト・イエスによってもたらさ
れることが示されています。当然そこには十字架の死の出来事があることが3節で示され
ています。わたしたちが3つの土地の中に生きていることを認め、そして良い土地へと導
かれるために、イエス・キリストにあることをそこで示しておられるのです。
 「イエス・キリストにある」、このことはいろいろな形で私たちに与えられています。
洗礼はイエス・キリストに結ばれることであり、イエスの死と復活にあずかることである
ことが示されており、またルターは聖餐において、キリストと共に、キリストの中に、キ
リストの内にいることになることを示していますし、教会はキリストが満ち満ちておられ
る場であるとエフェソ書は伝えています。ある神学者はキリストにあることはもうすべて
の人に成り立っている現実であるとも言っています。そして大切なことはわたしたちの側
がそのことに気付いて、キリストの内にあることに気付いて、キリストにあって生きるこ
とへと導かれることでしょう。