2023年7月9日「ホッとひと休み」中島共生牧師

礼拝説教

福音書箇所:マタイ11章16‐19、25-30節  説教題:ホッとひと休み
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今朝の福音書日課16節からでしたが、実は16節の頭に隠れている言葉があります。『しか
し』という言葉です。ですから、16節は「(しかし、)今の時代を何にたとえたらよいか。」と
いう言葉から始まります。今の時代について語られるイエスさまですが、それは前提を受けての
言葉であるということです。前提には何があったのでしょうか。11章の1節から洗礼者ヨハネ
について記されておりました。今朝は始めにそのことから聞いてゆきたいと思います。
11章冒頭、洗礼者ヨハネがイエスさまに向けて問いを投げかける場面が記されています。「
来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか
。(11:3)」この問いは、洗礼者ヨハネが捕えられていた牢獄から発せられたものでした。ヨ
ハネはマタイ福音書3章に記されるように、イエスさまが来られるより早く、神の国の訪れを人
々に告げ知らせた人物です。そしてイエスさまがヨハネの目の前に現れ、イエスさまに洗礼を施
した直後、ヨハネは捕らえられてしまったのです。ヨハネはイエスさまを待ち望んだにも関わら
ず、その歩みに直接触れることができなかったのです。冷たい牢獄の中で、ヨハネはイエスさま
に問います。『あなたは約束のメシアで間違いないのですか』福音書に登場する人物の中でもと
りわけ神の御心に聞き従った人物として記されるのがヨハネです。そのヨハネが、なぜイエスさ
まを疑うような問いを持つのでしょう。いえ、そんなヨハネだからこそ、問いを持ったのです。
天の国がもうすぐそこまで来ている、天の国は必ず来る、だから悔い改めよと語ったヨハネ。天
の国が近づいたと本気で信じ、本気で伝えたヨハネだからこそ、天の国の希望と、今現在自分の
置かれている状況、牢屋の中でたった一人佇む現実とのギャップに打ちのめされるのです。
そのような過酷な状況に置かれたヨハネに、イエスさまはなんと答えたでしょうか。「行って
、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人
は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」『どうして、なぜ』と
問うヨハネに対して、『あなたは間違っていない、確かに神の国は訪れている』とイエスさまは
伝えました。ヨハネはこの報せを、牢屋の中で受け取ったでしょう。自身の置かれている状況は
何一つ変わらなくとも、全てが報われた、そんな思いだったのではないでしょうか。真っ暗な牢
屋の中で、どこに行くこともできない不自由さの中で、外の音が何も聞こえてこない冷たい静寂
の中で、ヨハネのもとに確かに『福音』が届いたのです。ヨハネが背負った重たい使命、『天の
国の到来を宣べ伝えよ』、この神さまの御心を自分は果たすことができたと、安心したのではな
いでしょうか。
イエスさまは、そんなヨハネの現状、人々が彼を受け入れなかった有様を見て、そしてご自身
がこれから先、人々に受け入れらないことも見越して、語ります。『ヨハネは確かに来た。神の
子も確かに来た。しかし、今の時代は私たちを受け入れられない。』それはまるで、『笛を吹い
たのに、踊ってくれない。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれない』ことのようだと言うの
です。

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イエスさまのこの譬えは、『あなたたちは何かしているようで実は何もしていない、何かを知
っているようで実は何も知らない』そういう意味の言葉です。譬えに登場する笛を吹く者はイエ
スさまであり、葬式の歌を歌うのはヨハネです。人々はそのどちらにも見向きもしないのです。
受け入れないだけではありません。ヨハネは食べない、飲まないという理由で人々から拒否され
ます。イエスさまには食べる、飲むという理由で、これまた拒否されるのです。だから、イエス
さまはこの時代の人々を、①ごっこ遊びをする子供たちのように、自分のしていることがどんな
意味を持つのか分かっていないことを、②異議を唱えてばかりで、結局何もしていないことを断
罪します。誤解を恐れずに強い言葉で言うならば、救いようがない、そう言ってしまってもよい
かもしれません。しかしそれがイエスさまの本音ではないでしょうか。
ではなぜ、神さまは神の子という独り子をこの世界にお与えになったのでしょうか。救いよう
がないのに、どうして救おうとされるのでしょうか。私たちの力ではどうやっても救いにたどり
着くことができないから、神の子がこの世界に与えられたのです。救いようがない、とは、一人
ひとりの能力や資質に対しての言葉ではありません。どうして人々は神の言葉を聞くことができ
なくなっているのか、どうして正しい者の後ろに従うことができなくなっているのか、それは私
たちが罪に支配されている、罪人だからです。罪によってしか生きられないからです。だから、
神さまは独り子をこの世界に遣わし、その背中に私たちの罪を全て背負わせたのです。そして罪
という重荷に苦しむ私たちの大荷物を見て、『大丈夫、私も担ごう』と言って罪を背負ってくだ
さったのです。
イエスさまが背負ってくださったら、私たちの罪は無くなるでしょうか。そうではありません
。罪は依然としてあるのです。イエスさまも『あなたの罪はもうキレイさっぱり無くなった』と
は言わないのです。私たちには絶えず、罪の誘惑がすぐそばにあるのです。どんなに立派な信仰
者であれ、それは同じだということを、洗礼者ヨハネが証ししています。洗礼者ヨハネは問いを
持ったのです。『あなたが本当に約束のメシアですか』信じても信じきれない、信じたと思って
も明日にはまた疑ってしまう、それが罪によってしか生きられない私たちであることを、およそ
人間の中で最も偉大だとイエスさまに称されたヨハネが証ししています。ですから、キリスト教
信仰とは、罪を0にする信仰ではないのです。信じたらゴールを迎えるような、もう罪とおさら
ばというような信仰ではないのです。むしろ、私には罪が10どころか100あることを自覚し
、その私を神さまが受け入れてくださっていること、ここに来て休んでごらんと招いてくださっ
ていることを知って生きる信仰、それがキリスト教信仰です。第二日課のパウロの言葉を借りる
ならば、『私が望まないことをしてしまうのは、私の中に罪が住んでいるからです。善を為そう
としても悪が付きまとってしまうのです。私はなんと惨めなのでしょう。しかし、そのような死
に定められた私を救ってくださる主イエス・キリストに心から感謝いたします。』
私たちが背負っている最も大きな荷物は、私たちの背中に重くのしかかる罪です。イエスさま
は、私たちの背負う重たい罪を見つめて、私の荷物も背負いなさいと語ります。イエスさまの荷
物とは何でしょうか。それは、神の愛です。神の愛は、私たちの重荷を軽くするのです。この世
を生きる私たちの重荷は決して0にはならないけれど、神の愛を共に携えて歩むならば、その荷
はどこまでも軽くなるのです。私たちの背負う、たくさんの重荷、同時に、私たちは神の愛をも
背負っているのです。何度も疑い、何度も挫けながら、何度でも『大丈夫、あなたは私の愛を背
負っている』と語ってくださる主の荷物を背負って、私たちは歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。