礼拝説教
出エジプト19:2~8a、ローマ5:1~8、マタイ9:35~10:8
今日の福音書の日課は弟子たちを宣教へと派遣される個所です。ですから説教題を「世
への派遣」としました。そしてこれは弟子たちへの言葉だけではなく、わたしたちへの言
葉でもあると思えます。聖書から聴いて行って見たいと思います。
神様に質問することが出来るなら、その一つに、なぜイスラエルという民を選ばれたの
ですかということがあります。その質問に対する答えとして、その目的のひとつを今日の
旧約聖書の日課は示していると思います。6節に「あなたたちは、わたしにとって、祭司
の王国、聖なる国民となる」とあります。少しむつかしい表現だと思いますが、平たく言
えば、人々に神様を指し示す役割、神さまとの間を取り持つ役割であるということでしょ
う。わたしたちが信じる神様は目には見えない方です。それゆえに、神様は人とのかかわ
りによって自分を顕してくださいました。まずはアブラハムを呼び出し、アブラハムとの
関係の中で自らを現してくださったのです。ですからこの神様のことをアブラハムの神と
いう呼び方をしています。それが個人ではなく民族としてあるのがアブラハムの子孫であ
るイスラエルなのです。
しかしこの時一つの条件を出されました。それは5節にある「今、もし私の声に聴き従
い、わたしの契約を守るならば」という条件です。この条件のもとにイスラエルの民は歩
んできました。イスラエルの民は、それを守ったり、守らなかったり、特に守らないこと
のほうが大きかったのですが、そのことを通しながら神さまを指し示してきたのです。そ
れが旧約聖書であると言えるでしょう。
さて、新約聖書の世界に移ってみましょう。初めも言いましたが、イエス様が12使徒を
宣教へと派遣されるところです。そしてその派遣のもとは、イエス様自身が宣教をされ、
すなわち35節にあるように町や村を「残らず」回って「会堂で教え、御国の福音を述べ伝
え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」のです。その時イエス様はこう感じられ
ました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深
く憐れまれた。」それゆえに働き手を求めるように祈ることを示されたのちの弟子たちの
派遣でした。相手の状況を見て深く憐れまれたことが、派遣の動機になっています。この
深く憐れむということは「はらわた」と関係する言葉で日本語で「断腸の思い」という表
現がありますが、はらわたの底から痛む思いで、相手の存在に対する深い愛を示していま
す。このことを考えると旧約で律法を守ることが聖なる民の条件であったように、新約聖
書で弟子であることの条件、宣教の底にあることは愛であることと理解できます。
そのことはヨハネ福音書の13:34,35に「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛
し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってわたしの弟子であることを、皆が知
るようになる。」 この言葉は「互いに」という言葉があるので、弟子同士がというよう
に理解できますが、もっと広げて、イエス様の愛の内に生きることがイエス様の弟子であ
ることであると理解してもいいと思います。
今日の使徒書のローマ書の箇所を見ても、パウロは愛がどんなに大切であるかを示して
います。わたしたちがどのような困難の中にあっても、希望へと導くものは、愛であるこ
と、神様が愛していてくださることを信じることであることが有名な言葉で示されていま
す。神さあの愛によって神さまとの間が開かれ、救いへの希望のうちに生きるようにされ
たものは、同じ愛によって、艱難をも誇りを持って受け取る。そしてその愛は忍耐、練達
、そして希望へと導くことが示されています。しかもその愛はわたしたちがそれを受け取
る資格がないときに示された愛です。この深い相手の存在への愛というもとに弟子たちは
派遣されたのです。
最後に今日の日課で心にかかることを見てみたいと思います。それは弟子たちを派遣さ
れるとき「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない
。」と言われたところです。確かに他のところにもイエス様のこのような発言、「わたし
は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」があります。しか
し、良きサマリア人のたとえのように、偏狭な考えをイエス様は持っておられないし、新
約聖書において異邦人伝道は進んでいるのですから、このイエス様の言葉には深い意味が
あるかもしれませんが、すこし平たく理解してみたいと思います。それは遠くの方や、大
それたことをするというのではなくて、身近なところから始めるようにということです。
そのことに関してよいたとえがありますので、ご紹介したいと思います。先日南アフリカ
で初めて黒人の大統領になったネルソン・マンデラ氏のことを描いた映画を見ました。そ
のことの中心をご紹介したいと思います。彼は黒人差別により27年間牢獄での生活をした
のち、南アフリカ共和国の大統領にえらばれました。初の黒人の大統領です。そのことは
大きな困難が先にあることが予想されます。国の経済を握っているのは白人の富裕層です
。黒人の人たちは長い間の差別の政策で白人社会に根強い恨みを持っています。その中で
統治することは困難です。映画ではまず彼が手掛けたことはラグビーでした。南アフリカ
のチームは当時あまり強くありませんでした。しかし、1年後に南アフリカでラグビーの
ワールドカップが開催されるので、そこに出場することが出来ます。でも、国において黒
人からは彼らが負けると喜ばれる状態でした。チームの中に1人の黒人選手がいますが他
はみな白人です。ですから彼らにとって自分の国の誇れるチームとは思えないのです。マ
ンデラは映画ではまずこのラグビーチームの問題に取り掛かります。そこの中心の精神は
権力によって白人を追い出すのではなく、赦しと南アフリカという国に対しての誇りと愛
です。チームの主将を呼んで、彼の心を伝えます。マンデラの態度と言葉によって主将は
その心を理解します。またラグビーの選手たちに黒人社会の少年たちのところにコーチと
して行かせます。マンデラの姿勢によって、そして選手たちの頑張りによって、ワールド
カップに南アフリカのチームは優勝します。マンデラは遠くの理想ではなく、身近なラグ
ビーにおいて恐れを取り除き赦しの大切さを示し、そして南アフリカという国をまとめた
のでした。遠くの絵にかいた理想ではなく、近くの生活の中での真実に生きることそのこ
とから始めたのでした。わたしたちもまた、イエス様の派遣は、身近な生活の中からであ
ることを覚えましょう。