2023年5月28日「聖霊を受けなさい」

礼拝説教

使徒言行録2:1~21、Ⅰコリント12:3b~13、ヨハネ20:19~23

 
 今日は、イエス様の弟子たち、信徒の群れに聖霊が与えられたことを覚える聖霊降臨日
です。その様はルカが描く使徒言行録とヨハネ福音書では少し違っています。ルカ福音書
ではイエス様が復活された50日後、ユダヤ教では刈り入れの祭りがなされた5旬祭の日で
す。ヨハネではイエス様が復活された日の夕方、弟子たちのところに顕われられたイエス
様によって、その場で聖霊を与えられています。しかしどちらも十字架に架かられて死な
れたイエス様が復活された後のことです。ですから十字架と復活の出来事に深くかかわっ
ていると言えるでしょう。またそこにはイエス様を信じる群れが与えられたことと、宣教
への派遣があることに特徴があります。
 「聖霊」は原語では「風」や「息」という意味を持った言葉です。創世記の2:7に「主
なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生き
る者となった。」とあります。この息という言葉は聖霊の霊という言葉と同じものです。
この関連から考えてみると、ヨハネ福音書に「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を
受けなさい』」とありますが、イエス様が弟子たちに聖霊を与えられたのはキリスト者と
して生きる命を与えられたと言えるでしょう。
 聖霊降臨日を祝うことは、このキリスト者として命が与えられた群れが生じたこと、こ
の聖霊がイエス様を信じる群れに与えられたことを覚えることであり、すなわち教会が誕
生したことを意味しているからです。この時の後にキリスト者となった者も、洗礼を受け
る時同時に聖霊という賜物を受ける按手を受けるのです。
 今日の第2の二課の第1コリント書の日課のはじめに「また、聖霊によらなければ、『イ
エスは主である』とは言えないのです。」という言葉があります。イエス様を自分の主と
して信じる信仰は聖霊によっていること、そのことを伝えています。自分の力で信じたの
ではなく、神様の側からの働きがあって初めてイエス様を自分の主と受け入れることが出
来たのです。このことはわたしたちが自分で信じたという誇りを打ち砕くだけでなく、信
仰へと導いてくださる神様の側からの働きがあること、そのことを示してくれています。
それが聖霊の働きです。
 ヨハネ福音書の14:15以下に弁護者という言葉をイエス様は使っておられますが、聖霊
を与えるという約束をされたとき、こうも言われています。「世は、この霊を見ようとも
知ろうともしないので、受け入れることが出来ない」と。見ようとも知ろうともしない人
間の側の態度があるとき、この聖霊を受け入れることが出来ないのです。すなわち、「見
よう、知ろう」という態度、わたしの言葉で言うと応答する私たちの姿も大切であること
が分かります。
 先日も言いましたが、わたしたち人間を神様に似せて創造されました。すなわち人格的
な関係、あなたとわたしという応答の関係に創造されました。ですから聖霊においても同
じことが言えます。聖霊の働きを見ようとも知ろうともしなければ、その働きはその人に
は意味のないものとなります。その働きを信じ受け入れるとき、確かに聖霊の働きはその
人のものとなるのです。ですから聖霊降臨日のこの時、特に私たちは聖霊の働きが与えら
れていることを信じ、その働きに身をゆだねていくことが大切なのでしょう。
 最後にもう一つの大切なことを見てみましょう。それはイエス様が「わたしもあなたが
たを派遣する」と言われた後に、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦され

る。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないままのこる」と言われたことで
す。いわゆる鍵の権能を教会に託されたということです。罪を赦す、赦さないの権能を与
えられた。すごいことですね。でもこの時注意しなければならないことがあります。わた
したちはついつい権能が与えられると、その権威を誇るようになることがありがちです。
権威の上に立つ人が多く傲慢になることがあることを見ればそのことはよくわかります。
しかしこのヨハネ福音書が示しているこの鍵の権能を与えられた状況を見てみることが大
切だと思います。
 イエス様が復活された夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていたとあ
ります。この時もう彼らはマリアからイエス様の復活のことを知らされています。イエス
様が復活されて生きておられると同時に、神様のもとに上るとも知らされています。彼ら
が家の戸に鍵をかけていたということは確かにユダヤ人を恐れて、すなわち自分たちもイ
エス様のようにとらえられて死を受け取らなければならないかもしれないと考えてと考え
られるでしょう。しかし、イエス様が復活されたことを聞いた後のことです。
この戸に鍵をかけていたということは彼らの心を閉ざしていたことを現しているとも考え
られます。すなわち十字架の出来事において彼らはイエス様を裏切り見捨ててしまったの
です。彼らの心はイエス様が生きておられると聞いて信じられないけれど喜びがあるかも
しれません。しかしそこに影を差すものがあります。自分たちがイエス様を見捨てたとい
う事実です。イエス様が自分を見捨てると言われたとき、絶対にそんなことはないと言っ
た弟子たちです。その心の暗さをこの家の戸に鍵をかけていたということは示していると
も思われます。その彼らの真ん中にイエス様はたたれて「あなたがたに平和があるように
」と言われたのです。シャロームというこの言葉は神様が共におられる平和、神様の義が
成り立っている平和です。イエス様は自分たちを責めておられない、自分たちにシャロー
ムとあいさつをされた、彼らはイエス様の赦しを感じ取ったでしょう。彼らの閉じられた
心は開かれたことでしょう。イエス様はそのシャロームという言葉をもう一度言われたう
えで、この鍵の権能を託されたのです。ですから弟子たちにとってこの鍵の権能を与えら
れたということは、自分たちの権威というより、自分たちにも与えられた赦しを人々に伝
える者となったこということでしょう。わたしたちの教会にもこの働きが託されています
。しかもそれはわたしたちが赦されたものとしてあることの上に立って託されているので
す。