2023年5月21日「主の昇天」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録1:1~11、エフェソ1:15~23、ルカ24:44~53

 
 イエス様の出来事の中には私たちにとって大きな転換的な出来事があります。そのこと
を私たちは教会暦の中で毎週何々主日として理解しながら守っています。今日は昇天主日
ですが、イエス様が天に上げられたことはわたしたちの信仰においてどんな意味を持って
いるのでしょうか。どんな転換点なのでしょうか。
 説教の準備のために註解書を読んでいた時、いい説明の文章がありましたので、ご紹介
したいと思います。少し硬い文章ですが。そこには「昇天とはキリストが見えざる神の領
域に入り、見えざる神的な力に満ちたという復活体の側面を表現する用語だが、ルカは、
神の救いの『歴史』・・時空に規定されたもの・・を伝えるという立場から、時空に位置
付けられた別れという意味を『昇天』の中心にする」とあります。なかなか良い説明だな
あとわたしは感じました。
 「復活体の側面」とはむつかしい表現だと思いますが、イエス様の復活の中心は神様の
命、死を超えた永遠の命そのものになられたことを意味していると思いますが、復活は同
時に見えない神の領域に入り、見えない神的な力に満ちたということを意味している、そ
のことを示すのが「昇天」であるということだと思います。そしてそのことは今日のエフ
ェソの日課の箇所を見るとよくわかります。エフェソ1:20,21には次のようにあります
。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において
ご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりで
なく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」イエス様は何ものに
も支配されない方、逆にすべてを支配される方、しかも今だけではなく、未来にわたって
も永遠にそうであると言っています。そのような方であること、そのような方に神様がさ
せられたことを昇天は意味していると言っているのです。このことを考えるとすごいこと
ですね。わたしたちは日常の中で様々なことに出会い、恐れを抱いたり、不安になったり
、暗い出来事に胸を痛めたりします。しかし、イエス様の昇天は、イエス様はそのような
ものに支配されない、いやむしろそのようなものを越えた方として、そのようなものの支
配から私たちを解放してくださる方となられた。その力を与えられたというのです。その
ことを受け取ることが出来たら私たちは何と幸いなのでしょう。
 エフェソ書はさらに素晴らしい事実を私たちに告げています。わたしたちは日本福音ル
ーテル宇部教会の一員です。教会という言葉が現わすのは建物ではなく、その群れ、集ま
りのことです。この教会はASU共同体に属していますし、さらに言えば日本福音ルーテル
教会に属しています。もっと大きな目で見れば日本の教会、世界の教会に属しています。
そしてエフェソ書は素晴らしいことを私たちに示しています。それはこの教会の頭として
神様はイエス様を与えてくださったということです。この宇部教会の群れの頭としてイエ
ス・キリストを与えてくださったというのです。この教会の頭は牧師でも代議員でもあり
ません。イエス・キリストだというのです。そして嬉しいことにエフェソ書はさらに続け
ます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちてお
られる場です。」というのです。この宇部教会の群れはキリストが満ちておられる場だと
いうのです。素晴らしいことですね。
 このことを受けると私たちは喜びと同時に少し戸惑いがあるかもしれません。それはこ
のことはわたしたちの目に見えることではなく、目に見えない事実だからです。

 今日の日課の中には福音書にもこの第2の日課のエフェソ書にも「心の目を開いて」と
いう表現があります。心の目を開いてもらうことはとても大切なのです。このイエス様は
教会の頭であり、また教会はイエス様が満ち満ちておられる場であるということは、開い
てもらった心の目で見る事実なのです。
 皆さんも何らかの心の目を開いてもらわれたことがあるのではないでしょうか。そして
その時、開いてもらった心の目で見せてもらったもので歩むという信仰の歩みがあったで
しょう。わたしにもそのような経験があります。まだ神学生であったとき、妻が交通事故
で入院していた時、住んでいた近くの広場で空を見上げていた時、わたしの心に、「わた
しは神様によって造られた被造物だ」という思いが与えられたのです。このことは本当の
意味で私の信仰の歩みの出発点となりました。神様という存在も、隣人との関係も、在り
方が全く変わらされたのです。
 福音書の46節からのところでイエス様が弟子たちの心の目を開いてから言われたことに
「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」と救い主の出来事を言われ
た後に「また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝
えられる」という言葉があります。罪は神様をないがしろにして自分中心になって生きる
ことを現していますし、悔い改めは自分中心の方向から神様中心の生き方に変えられるこ
とを示しています。神様の救いの出来事が与えられた時、それを受け取って、自分の歩み
から神様の方に心を向け、その方向に生きるという信仰、わたしたちの応答が大切でもあ
るのです。心の目を開いていただいて、イエス様が教会の頭であり、教会はイエス様の満
ち満ちておられる場であるとの素晴らしい福音を受け取って歩んでいきましょう。