2023年5月14日「愛され、愛する」中島共生牧師

礼拝説教

福音書箇所:ヨハネ14章15-21節 説教題:愛され、愛する

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

先日行われました全国総会に、牧師となって初めて参加いたしました。総会では開会礼
拝、閉会礼拝の他に4回の朝祷、晩祷があるのですが、2019年、2020年に卒業した4名
の牧師たちが今年の朝祷、晩祷を担当いたしました。4回の礼拝に、4名の牧師、ちょうどい
いと言えばそれまでですが、160名を超す会衆の面前で礼拝司式、説教をするというのは
私にとって大きな出来事でした。最終日の朝祷が担当でしたから、総会3日間ずっと緊張し
て過ごすこととなりました。担当した朝祷で共に聞いたみ言葉は、テモテへの手紙です。「御
言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐
強く、十分に教えるのです。(中略)あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、
福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」教会の務めとは何か。これまで新
型ウイルスの感染拡大にあって総会の開かれなかった5年間を思い返しながら、それでも、
神の希望について語ろうと心に決めていました。

総会の行われた東京教会は総会の会場としてだけでなく、様々なルーテル教会の典礼に
用いられます。按手式の会場としても用いられます。私は東京教会に行く度に按手式の光景
を思い出します。それは、自分が按手を受けた時のことではありません。そうではなくて、先輩
たちが按手を受ける姿を後ろから見ていた時の思い出です。聖壇の上に一人ひとり招かれ、
頭を垂れ、跪いて、祝福を受けながら首にストールを巻かれる姿を見て、いつか自分も、ここ
で同じ光景を見ている仲間たちと按手を受けて牧師になるんだと、希望で心が躍りました。
あの心に湧いた、燃えるような希望を忘れることができません。

按手式と聞けば、それは喜びの出来事、希望の出来事だと想像に難くありません。しかし
聖書が語る希望とは、充実した時、満たされた時にだけ語られるものでしょうか。むしろ、危
機的な状況、死に際して、それでもなお希望を語るのが聖書だと思うのです。本日の第二日
課はペトロの手紙からでした。「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」「あな
たがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備え
ていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」ペト
ロの言葉が向けられたのは、キリストを宣べ伝えるために苦しみを受け、地方に身を隠す同
労者たちでした。彼らは厳しい迫害に遭いながら、それでもなおキリストを伝えようと一生懸
命なのです。だからペトロは語るのです。あなたがたは幸いだと。そして、キリストの希望を語
り続けようと励ますのです。穏やかに、敬意をもって、正しい良心と態度で、語りなさい。何故
なら、キリストがそうであったように。

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福音書日課も、イエスさまが弟子たちに希望を語る場面です。最後の晩餐の後、十字架
が目前という状況で、イエスさまは恐れではなく希望を語るのです。あなたがたは私を見な
くなるが、そのことに心を奪われてはならない。あなたがたにもっと大切なものを残した。それ
が私の掟である。イエスさまの残された掟とは、13章34節に書かれています。「あなたがた
に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたが
たも互いに愛し合いなさい。」この掟を受け入れ、それを守る人になりなさい。イエスさまのこ
れらの言葉は、『守れる者は守ったらいい』、『守れるように頑張れ』という言葉ではありませ
ん。『あなたがたは私の掟を守るようになる』という未来へ向けた約束の言葉です。弟子た
ちが努力したから掟に従えたのでも、守った方が良いと思えたから掟に従えたのでもない
のです。神の子が約束されたから、弟子たちは『互いに愛する』道を歩んでいったのです。

イエスさまの語られた希望は、この世界の語る希望とはどこかが違います。自分の思った
通りになったら良しとする希望とも、第一希望、第二希望と希望に順番をつけるのとも違い
ます。むしろ、思った通りにいかない現状、迫害、無理解、困窮、病、迫りくる死、そのような中
にあってなお語られる希望です。互いに愛し合う、これ以上のものは何もないという神さまの
宣言です。十字架というこの世の最果てに向かって歩むイエスさまが語った希望は、その後
の弟子たちが歩む道を示しました。だからこそ彼らは、苦しみの中にあって、なお希望を語る
ことができたのです。イエス・キリストがそうであったように、私も希望を語ろう。イエス・キリス
トがそうであったように、私もあなたを愛そう。イエス・キリストがそうであったように、私を苦し
める者にさえ神さまの愛を伝えよう。自分の愛、希望に軸足を置くのではなく、神さまの愛、
希望に軸足を置いた歩みを弟子たちはなしていったのでした。

最後に、本日の第二日課、ペトロの手紙について触れておきたいことがあります。この手
紙が宛てられたのは地方に散らばった同労者たちだけではありません。『「キリストを見たこ
とがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち
あふれて(1:8)」いるあなたへ。』実にペトロからの手紙は、私たちに宛てられたものでもあ
るのです。神の言葉に聞き、神の言葉と共に生きるあなたは幸いだ。神に愛され、神を愛し、
隣人に愛され、隣人を愛する。互いに愛し合うことから、すべての希望の道が拓かれてゆく
のです。イエスさまが私たちの歩む道を拓いてくださったように。主によって指し示された道
を、共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。