2023年5月7日「イエスの名による祈り」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録7:55~60、Ⅰペトロ2:2~10、ヨハネ14:1~14

 
 復活節の今日も、復活の命の中にある私たちの幸いを思わせる日課が与えられています
。今日の福音書は、まず「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさ
い。」で始まっています。弟子たちに語り掛けておられるこの心を騒がせるなということ
は今日の箇所の前にイスカリオテのユダの裏切りの予告と裏切りのために出て行ったユダ
があり、それだけではなくペトロが離反するという予告、鶏が鳴く前に3度イエス様を知
らないというとの言葉があった後です。弟子たちの心が騒いでいるのはよくわかります。
この心を騒がせるなというのは聖書を開いている私たちにとってはわたしたちへの語り掛
けでもあります。わたしたちにも現実の中を生きていく時、こころを騒がせることがたく
さん目の前にあるからです。
このような心を騒がすことに対して、イエス様は今日の箇所で大切ないくつかの約束を
してくださっています。第1には父の家に、すなわち神さまのところですが、弟子たちや
私たちの住まいを用意しに行き、用意したら帰ってくると言われたことです。この帰って
くるということはヨハネ福音書では、終末の時に人の子のようなものが雲に乗って帰って
こられるという考えがありますが、そのようなものではないと言われています。そうでは
なく、聖霊降臨によって、わたしたちがイエス様と再びしっかりと結びつけられる、この
ことを示していると言われています。ということはわたしたちの最終的な住まいは神様の
ところにすでに用意されているということです。言い換えれば天にわたしたちの名は記さ
れているのです。これは素晴らしいことですね。私たちの終の棲家が神様のところに用意
されているなら私たちはもう安心です。確かにこの世においてたくさんの困難や苦しみが
あっても、終の棲家が暗闇や恐ろしい所ではなく、神様の元であるなら、わたしたちは何
と幸せなものでしょう。
この幸せな姿が、今日の使徒言行録の日課に示されています。その箇所は最初の殉教者
ステファノのこの世での死の時の場面です。ステファノはイエス様の出来事をユダヤの人
々に延べ伝えます。それによってユダヤの人たちはステファノを殺そうとします。そのス
テファノに聖霊が降ってきて彼に見せたのは天が開け、イエス様が神様の右の座におられ
る姿でした。これは何を意味しているでしょうか。これはステファノが神様とイエス様の
ところに自分の住まいを見たと考えても間違いではないでしょう。そしてそのことでステ
ファノに生じたことは、石打の刑を受け取ることでした。石を投げられて、そのことによ
って死を受け取ることは大変なことであることが想像できます。その痛みは大変なもので
しょう。ステファノはその刑を受け取っただけではありません。「主よ、この罪を彼らに
負わせないでください。」と自分を打つ者たちへの執り成しの祈りをしているのです。す
なわちイエス様の命に生かされているのです。
先週の日課に「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょ
うか。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神のみ心に適う
ことです。」という言葉がありました。罪は神様との間を閉じるものです。罪の中に閉じ
こもること、意識して罪を犯し続けることは神様との間が開かれていることを信じること
が出来ないようにしてしまいます。だから悔い改めることが必要でしょう。しかし、神様
のところにわたしたちの席があることを真に受け取ることが出来たらどんなに幸せでしょ
う。そのことはわたしたちをイエス様の命に生きることへと遣わし、また励ましてくれる
ものです。

そしてその時にわたしたちを励ましてくれる第2の約束が今日の日課の中にあります。
それは福音書の日課の最後の節14節にある「わたしの名によって何かを願うならば、わた
しがかなえてあげよう。」というイエス様の約束の言葉です。天にわたしたちの住まいが
用意してあるとはいえ、この世の現実の中で生きるとき、私たちにはやはり苦しみがある
ことを私たちは経験でよく知っていると思います。そのような苦しみの中にあるうめきに
ついて、パウロはローマ書8章で次のように述べています。「被造物がすべて今日まで、
共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」さ
らに「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること
、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。
そしてうめきはそれだけではありません。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが
、霊自らが言葉に表せないうめきを持ってとりなしてくださるからです。」とあります。
全被造物も、わたしたち自身、しかも救いを受け入れた者たちも、さらに聖霊さえも私た
ちのために「うめく」ことが示されているのです。天の家の約束が与えられているわたし
たちは、この地上で生きるとき、喜びと、賛美を持って生きるだけではなく、「うめき」
もやはり経験するのです。しかしその時に、イエス様がしてくださった約束「わたしの名
によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」という御言葉はわたしたちにと
って希望であり、喜びです。どんなことでもイエス様の名によって願う。祈りは語るだけ
ではありませんから、イエス様神さまに心を向けて聞くならば、そこに必ずその願いが聞
き遂げられることを知ることが出来るでしょう。イエス様が救いを成し遂げてくださり、
神様が復活の命を示してくださったことは、わたしたちにとってこのような幸いであるの
です。感謝して喜びと希望をもって歩んでいきましょう。