2023年4月30日「イエスによって命を受ける」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録2:42~47、Ⅰペトロ2:19~25、ヨハネ10:1~10

 
 今日は復活節第4主日で、今日も、復活の命、喜びを受け取る日課が与えられています
。第1の日課の使徒言行録では、救いの出来事を受けた初期の信仰者の生き生きとした信
仰生活の様が伝えられています。第2の日課のペトロ第1の手紙では、信仰者として歩む時
、不当な苦しみにあってもその苦しみを受け取って歩むことの大切さを示し、正しくさば
かれる神様に任すことが勧められています。その背後にはイエス様自身が神さまのみここ
ろとはいえ不当な苦しみを受けられたこと、そのイエス様を神様は永遠の命に復活させて
くださったことが示されています。そして福音書は聖書によく示されている、羊飼いと羊
の関係、旧約聖書では神様とイスラエルの民の関係ですが、福音書ではイエス様と信仰者
の関係として出てきますが、その流れの中でイエス様は羊の門であるということが示され
ています。そしてその中での中心で重要な言葉は、イエス様という羊の門を出入りして、
その羊は命の糧である牧草を見つけるということです。今日はこの福音書を中心に御言葉
を聞いて行って見ましょう。
 イエス様の復活の出来事の後に、日課としてまず与えられるのは、復活のイエス様が弟
子たちに顕われてくださった出来事です。そしてその後に与えられる福音書の日課は今日
のように羊飼いと羊の関係、またぶどうの木とその枝の関係が与えられます。ですからヨ
ハネ福音書の10章や15章が日課として与えられるのです。その意味はやはり十字架にか
かり復活なさったイエス様の命の内に生かされ、生きること、このイエス様に結ばれて生
きることが強調されているのだと思います。ぶどうの木とその枝のたとえでは、イエス様
がわたしたちにつながっており、わたしたちもイエス様につながっていれば豊かな実を結
ぶことが示されています。羊と羊飼いでは羊飼いに主導権がありますが、この羊飼いの導
きのもとにあれば豊かな牧草にあずかれることが示されています。
 では今日の日課の羊の門としてのイエス様のたとえから何を聞くことが出来るのでしょ
うか。ここもイエス様としての羊の門を出入りすることによって、牧草を見つけ、牧草に
あずかれるのですから、真の命にあずかれることが言われていると思います。ではここの
特徴は何でしょうか。初めの方に門以外から出入りするものは盗人であり、強盗であると
言われています。そしてこの話をされた相手はファリサイ派の人々に対してであると6節
に示されています。ファリサイ派の人たちとイエス様は対決しています。まじめに律法と
取り組み、日常生活の中で、律法を守ってきちっと生きようとしていたファリサイ派の人
達とどうして対決になっているのでしょうか。イエス様はファリサイ派の人たちの偽善や
裁きの姿を問題視されています。そこにあるのは、人に見せるための行動であったり、根
本において自分の利益のためにしている姿があるでしょう。だから盗人、強盗と表現され
ていますし、羊がついて行かないとも表現されています。それに対してイエス様には羊が
ついて行きます。それは自分のためではなく、羊を守り生かし、命を与えるための歩みを
されるからでしょう。
 イエス様が門だというと、また私たちはその門を見出すために一生懸命さがしたり、そ
の門を通るために一生懸命自分を鍛えて努力するかもしれません。でもそうするとまたフ
ァリサイ派の人たちと同じ間違いに入ってしまいます。イエス様という方、イエス様とい
う門はもう目の前に示されているのです。それに気付けばいいのです。またその門を通る
のは、身を鍛えなければ通れないのではなく、恵み、慈しみで通していただけるのです。
感謝して受け取ればイエス様という門をもう通っているのです。もう少し言えばもうイエ

ス様という門を通っているのです。それに気付けばいいのです。気付いてそのことを受け
取ればいいのです。イエス様はわたしたちのために命をささげられたように、愛に満ちた
方、わたしたちを愛してくださっているのですから。もう成し遂げられておられるのです
から。
 最後に使徒言行録の日課から聞いてみましょう。それは今の私たちに関係する大切なこ
とだからです。この箇所は初期の教会のことを示しており、聖霊の導きを受けて少し興奮
状態にある時でもあります。だから今の私たちに身近ではないかもしれませんが、そこに
ある心は大切であると思えます。聞いてみたいことはそこにある使徒の教えを守ったり、
祈ったり、神殿に行って讃美したりということではありません。42節にある「相互の交わ
り、パンを裂くこと」、また46節にある「パンを裂き、喜びと良心をもって一緒に食事を
し」というところです。わたしたちは3年余りも、食事を共にすることが出来ず、やっと
少しできるようになりました。今日の聖書を見るとこの食事を共にすることは大切なこと
であることが分かります。そのことと、その時の心構えをこの箇所から聞いてみましょう
。「パンを裂くこと」はあの最後の晩餐から聖餐式を思え浮かべるでしょうが、初期の教
会ではこの言葉は愛餐とその中に組み込まれている聖餐式を意味していたようです。聖餐
式が単独でなされていたのではないのです。そしてそこに出てくる「交わり」も食事をと
おしての交わりを意味していました。そしてこの言葉の「交わり」はギリシャ語で、「コ
イノニア」という言葉が使われています。この「コイノニア」はここでは「食卓の交わり
」を意味していますが、この言葉は他に「援助」「奉仕」「施し」の意味を持った言葉な
のです、ですからこの言葉は食事をお互いに分け合って、また仕え合ってしていることを
意味しています。パウロが手紙の中で、この集まりの中で金持ちが自分が持ってきた食事
を先にし、貧乏な人が食べ物が無くて座っているさまを責めている個所がありますが、そ
こからも分かち合い、仕え合って共にする食事を使徒たちは大切にしていたことが分かり
ます。私たちがお祝いの時に持ち寄りの食事をしていたことは聖書に適っているのです。
その時自分は作れないから行くのが嫌だとか言う必要なないことが初期の教会のありさま
からよくわかります。