2023年4月23日「イエスだとわかった」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録2:14a、36~41、Ⅰペトロ1:17~23、ルカ24:13~35

 
 先週に続いて復活のイエス様が弟子たちに顕われてくださった箇所が日課として与えら
れています。そしてそこには私たちの目に見える世界とは違っている出来事が示されてい
ます。復活されたイエス様が歩いている二人の弟子に顕われられたのだけれども、二人の
弟子はそれがイエス様だと気が付かず、エマオという村で食事の席について、イエス様が
パンを割いて二人に渡されたとき、二人はイエス様だと気が付いた。しかしその時イエス
様の姿は見えなくなったという私たちがよく知っている出来事です。今日はこの出来事か
ら、今の私たちにも伝えられていることを聞いていきましょう。
 イエス様が復活された日、日曜日ですが、たぶん後から想像するとお昼過ぎごろだと思
いますが、二人の弟子がエマオという村に向かっていました。そこはエルサレムからおよ
そ11キロ余り離れたところです。直線距離で宇部新川から阿知須までくらいの距離です。
 2人はエルサレムで生じたことを話しながら歩いていました。イエス様が捕らえられ、
十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたこと、女たちが墓に行くと墓が空になっており
、女たちにみ使いがイエス様は生きておられると告げたことなどです。十字架の死は二人
も実際に経験したことですが、イエス様が復活されたことは女たちが言ったことですので
、驚きですが、十字架の出来事の方が彼らの心を占めていたでしょう。ですから彼らの心
は暗さ、悲しみで満ちていました。
そこに復活の主イエス様が表れて二人と一緒に歩き始められましたが、二人はその方が
イエス様だとは気付かないのです。そのことを聖書は「二人の目が遮られていて」と伝え
ています。聖書はよくこのような表現をします。たとえば心をかたくなにされてという表
現です。そのようになっているのはその人の責任でしょうが、それも神様がされたように
伝え、すべてが神様の御手の中にあるように伝えているのだと思います。
イエス様は二人に話しかけられます。二人はイエス様にここ数日のエルサレムでの出来
事、イエス様の受難と死、そして墓が空っぽで、み使いが「イエスは生きておられる」と
告げたことを話します。しかし二人はこの出来事の意味を理解していませんでした。そこ
でイエス様は聖書に書かれていること、メシアは苦しみを受けて栄光に入るはずであるこ
とを二人に教えられます。後の箇所を見ればこの話を聞いた時二人は心が燃えていたとあ
ります。
エマオに着いたとき、少し不思議に思えることが示されます。それはイエス様が「なお
先に行こうとされた」ということです。あまり不思議に感じられないかもしれませんが、
ここには著者ルカが伝えようとしていることがあると思えます。それは「通り過ぎる」と
いう行為の意味です。マルコ福音書によると、湖で嵐にあって悩んでいた弟子たちの舟の
ところに、イエス様が湖の上を歩いてこられ、弟子たちの乗っている舟を通り過ぎようと
されたとの表現がありますが、これは意味があることなのです。旧約聖書を見るとさらに
この表現の意味がよくわかると思えます。預言者エリヤに関する出来事で、エリヤが王妃
イザベルを恐れてホレブ山の洞穴に逃れたときの出来事です。神様がその洞穴のところに
顕われられたのですが、ここにも洞穴の前を通り過ぎて行かれたとの表現があります。通
り過ぎるという表現はそこにおられる方は、神的な方、恐れ多いい方であるということを
表わしているものなのです。このことを考えるとルカがイエス様がなお先に行こうとされ
たとはそこを通り過ぎようとされたことですから、こう表現したということは、ここにお
られるイエス様は人間となられたイエス様ではなく、復活されたイエス様、神的な神様の
命、永遠の命になられたイエス様であることを強調したいのだと思われます。しかし、ま

だ二人の弟子は復活のイエス様であることに気付かないのです。
3人は食事の席について、イエス様が、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割い
てお渡しになった。」この行為は最後の晩餐の場面を二人に思い出させたでしょう。する
と彼らの目が開けて、イエス様だと分かったのです。しかし同時にイエス様の姿は見えな
くなりました。この弟子たちが気付いた場面は、墓の前で、マグダラのマリアのところに
復活のイエス様が顕われたけれどマリアはそれがイエス様だと気付きませんでした。イエ
ス様が「マリア」と声をかけられた時、マリアはイエス様と気付いたことも記されていま
す。これは復活の主は自然な形では認識することが出来ず、神様の側、イエス様の側から
働き掛けがあり、その時気付かされたことが分かります。信仰が与えられたと言えるのか
もしれません。同時に弟子たちが気付いたとき、イエス様の姿が見えなくなりました。こ
れは使徒言行録に、エチオピアの宦官が、フィリピから洗礼を受けた後、フィリピは姿が
見えなくなったとありますが、そのことに似ています。復活の主の出来事、また信仰の出
来事は自然現象を越えていることを示しているかもしれません。
これらのことが今の私たちの歩みにどう関係してくるでしょうか。復活の主が弟子たち
に顕われたように、わたしたちにも表れてくださるのでしょうか。もしかしたら、復活の
主に夢か何かで出会う人がいるかもしれません。そのような人は幸いと言えるかもしれま
せんが、そのような人はほとんどいないでしょう。でも復活の主に出会うとは、復活の姿
をされたイエス様に出会うことだけではないと思います。では復活の主はわたしたちに関
係ないかというとそうではないと思います。たとえば喜びを感じている中で、何かの聖書
の言葉に触れ、自然的な喜びを越えた、何か深い命の喜びを知った時、それは復活のイエ
ス様、復活の命に触れていると言えると思います。また、何か困難にあった時、また大き
な手術を受けるとき、御言葉に触れたり、イエス様に祈るときに恐れが取り払われて、平
安が与えられた時、それはイエス様につながれていること、単なるイエス様ではなく、死
を破られている、復活の命にあるイエス様に出会っていると言えると思います。復活のイ
エス様は今も私たちの中で働いていてくださるでしょう。日頃は気付かず目に見えないけ
れど、何らかの働きを受けたとき、真の命の喜びを与えられたり、死を超えた平安を与え
られた時、私たちは復活の主に出会っていると言えるでしょう。