2023年4月16日「主の日、再び」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:ヨハネ20:19-31
説教題:主の日、再び
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今年のイースターから、ASU3教会はそれぞれの教会で復活ろうそくの使用を開始しました。ルーテル教
会の中には復活ろうそくを使用している教会もあれば、使用していない教会もあります。どちらが正しいとい
うことはありません。たとえば十字架も、キリストが磔にされている十字架もあれば、キリストの姿の無い十字
架もあります。多くのルーテル教会ではキリストの姿の無い十字架が掲げられているでしょう。それは、復活
のキリストを見てゆくためです。しかしそのことが、十字架に磔にされたキリストの意義を蔑ろにすることはあ
りません。どちらも尊ぶべきです。“アディアフォラ(どちらでも良い)”な問題で在って、それは“どちらも良い”
ということです。実際、ドイツのルター派教会に行ってみるとキリストが磔にされた十字架を掲げている教会
がたくさんあります。何故なら、宗教改革以後ルター派に改めた教会はもともとあった十字架(キリストが磔
にされている十字架)を用いているからです。ルターは十字架の形状を“本質的なもの”とはみなしませんで
したから、今ある十字架のままで良いのだと語りました。本質的なものとは、み言葉(聖書、説教)とサクラメ
ント(聖餐、洗礼)であって、それ以外のものは選択することができるということです。これが今日の私たちの
教会にも当てはまります。み言葉に聞くならば、そこに十字架に掲げられるキリストを見ることも、復活された
キリストも見ることもどちらもできるのです。しかし週ごとに十字架を付け替えるわけにはいきませんから、ど
こかで決断する必要があります。私たちの教会に与えられている十字架も、どこかで誰かが決断した十字
架です。復活ろうそくも同じだと思っています。どこかで、誰かが決断したろうそくです。私たちはここに何を
見るでしょうか。たった一度きりの復活を、週ごとに見つけてゆくことができるでしょうか。消えることのない
復活の光を見つめてゆくことができるでしょうか。その意味で、このろうそくは私たちの希望であり、同時に
私たちに問いを投げかけるろうそくでもあるのだと思っています。私たちが復活のろうそくの意義に対して問
いを持つだけなく、復活のろうそくの方から私たちに問い掛ける言葉がある。それは、どんな言葉でしょうか。
どんな、希望でしょうか。今年一年を通して考えてゆきたいと思います。
復活のイエスに問いを持った人物として、聖書はトマスの名を語ります。トマスは『私はイエスさまの傷跡
を見て、触れてみなければ信じない』と言うものですから、“懐疑家トマス”と呼ばれることもあるそうです。疑
い深いトマス。ヨハネ福音書は、これまでにトマスについて2箇所、記しています。一つ目が11章、ラザロの
死の場面です。イエスさまはラザロ危篤の報せを受け、ラザロがいるベタニアに行こうと弟子たちに伝えま
す。この時、イエスさまは祭司長グループから命を狙われているかも知れないという状況にありましたから、
彼らの住まうエルサレムからほど近いベタニアに行くことは危険だったのです。しかしトマスは言いました。
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」命の危険をも顧みない、やらなきゃいけないことは絶対に
やるのだ、そういう情熱的なトマスの姿が伺えます。もう一つは14章、十字架の直前、エルサレムにやってき
たイエスさまが最後の教えを弟子たちに伝える場面です。足を洗い、共に食事を食べ、ペトロにあなたは私
を三度知らないと言うと予告されました。そして父なる神のもとに至る道があることを弟子たちに教えます。
『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私を信じなさい。父のもとへ行ったら、あなたがたを迎えるために
戻って来る。私がこれから行く所を、あなたがたはもう既に知っている』そう告げるイエスさまに、トマスは言
います。『イエスさま、私たちはその道を知りません。』思ったことがすぐ口を出てしまうトマス。正直者で、情
熱的で、そんなトマスが今日は疑う者として登場するのです。

トマスの疑い、それはイエスさまの復活を疑ったのでしょうか。復活だなんて信じられないから、信じないと
言ったのでしょうか。トマスの性格を考えるならば、悲しいから生まれた言葉だったのではないでしょうか。
『どうして私の前には現れてくれなかったのだ』という悲しみです。自分も、復活されたイエスさまを見て信じ
る者となりたかったのに、なれなかった。イエスさまは自分を選んでくれなかった。そういう悲しみ、空しさをト
マスは感じていたのです。そして私たちはこの空しさを知っているのではないでしょうか。それぞれのこれま
での歩みに於いて、どうして自分だけと思うことがあったと思うのです。では、どうして皆さんは今日、ここに
集い、またライブ配信を通して集っておられるのでしょうか。悩みを抱えていたから、聖書に興味があったか
ら、親に連れられて仕方なく、教会との出会いはそれぞれあったでしょう。けれど、私たちが今日ここに集うて
いるのは、主によって招かれているからに他なりません。私が教会に行くに足る理由をどれだけ見つけようと
も、主があなたを呼び、あなたを招いてくださっているから、私たちは主に従う群れとしてここにいるのです。
疑うトマスの前に、主は姿を現わされました。一週間前、トマス以外の弟子たちに現れたのとまったく同じ仕
方で現れてくださいました。そしてトマスに言うのです。『あなたの指をここにいれてごらんなさい、ここに傷
があるでしょう。あなたの手を伸ばして私のわき腹を触ってみなさい。ここにも傷があるでしょう。トマスよ、信
じる者となりなさい。』トマスはイエスさまが自分の前にも姿を現わしてくださり、喜び、「わたしの主、わたし
の神よ」と信仰告白します。そのトマスにイエスさまが言葉を掛けます。『見ないのに信じる者は幸いだ。』
トマスは自分の目で見なければ信じないと、心に在る悲しみを言葉にしたのですが、イエスさまは『見なく
とも信じなさい。その者こそ幸いだ。』と語りました。トマスであれ、私たちであれ、見ないのに信じることがで
きるでしょうか。弟子たちだって、マリアから「わたしは主を見ました」と告げられ、信じたでしょうか。信じるこ
とができなかったから、家に鍵を掛け閉じこもっていたのではないでしょうか。しかし主は言います。『見なく
とも信じるものになりなさい』と。どうすれば、私たちは“見なくとも信じる者”になれるのでしょうか。なれるの
です。何故なら、トマスは見なくとも、マリアが、他の弟子たちが復活されたイエスさまを見たからです。一週
間前、復活のイエスさまに弟子たちは出会いました。それは弟子たちと復活のイエスさまとの出会いであり、
トマスに代わっての出会いでありました。ですからイエスさまの『見ないのに信じる者は幸い』と言う言葉は、
『あなたに代わって私を見た者がいるではないか。その者の言葉を信じなさい。』という言葉です。そして教
会は2000年間、このことを証しし続けてきたのです。
今日、私たちは復活のイエスさまと出会っています。それは直接手で触れる出会いではありません。み言
葉を通して、隣人を通して、復活ろうそくの光を通して、ここに与えられる信仰を通して、出会っているのです。
一人ひとりが招かれてここにいるのですから、招き主であるイエスさまもここにおられる。言うまでもなく、私
たちは十字架やろうそくを見てそのことを信じるのではないのです。見えずとも、復活の主があなたに語り掛
ける言葉があるから、与えてくださる信仰があるから、私たちは復活の主を知っているのです。弟子たちが
主と出会ったように、そして再び、主が弟子と出会われたように、私たちは毎週ここで主と出会っている。復
活節第 2 主日、主日とは主の日という意味です。主が私たちに与えてくださった大切な一日。先週それぞれ
の教会で祝い、喜びを分かち合った復活祭が、今日も繰り返し祝われるのです。あなたを今日、ここに招い
てくださった主がおられます。あなたと出会われる復活の主が共におられます。主と、隣人と共に、主の日か
ら始まる一週間を歩み出してまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあっ
て守るように。