2023年4月16日「あのお方は復活された」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ31:1~6、使徒言行録10:34~43、マタイ28:1~10

 
  今日はイエス様の復活を記念し、お祝いする復活主日礼拝です。また、コロナ禍にあ
って、3年もの間共に食事をすることが出来なかったけれど、今日は復活日のお祝いとし
てホールに集まって一緒に食事をします。みんなで神様に感謝の時と喜びの時を持ちまし
ょう。
 パウロが自分の言葉で福音の内容を語ったところがパウロの書簡の中に2か所あります
。その一つはⅠコリントの15章です。そこは復活について語っているところですが、そこ
で福音の内容についてパウロが語っています。そこには4つのことが示されています。そ
れはキリストが聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと
、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、そして弟子たちに顕われたことです。こ
れを見ればパウロが福音として理解していたことはわたしたちの罪のために死なれたこと
、そして三日目に復活されたことだとわかります。葬られたことはイエス様が確かに死な
れたこと、そして死の支配の中に入れられていることを示しているでしょうし、また、弟
子たちに顕われられたことは確かに復活されたことと、今、命の中におられることを示し
ていると思われます。
 復活の朝の出来事を見てみましょう。マグダラのマリアともう一人のマリアが日曜日の
早朝、墓を見に行きました。他の福音書にはヤコブの母マリアとありますから、もう一人
のマリアはヤコブの母であったかもしれません。彼女たちが墓に行くと、大きな地震が起
こって、墓の入り口を覆っていた石が転がされ、入口が開かれました。そこには天使が天
から下りてきて入り口を覆っていた石の上に座ったとありますから、この出来事は神様が
されたことであったことが分かります。この石がころがされ、入口が開いたのは何のため
であったでしょうか。復活されたイエス様が外に出られるためであったでしょうか。そう
では決してないでしょう。復活されたイエス様は戸を閉めて集まっていた弟子たちの中に
入られたのですから、イエス様のために石を転がす必要はなかったでしょう。何のためか
というと、のちに出ますが女たちに中を見せるためであり、墓が空っぽであることを示す
ためでした。4福音書とも墓が空であったことから復活の出来事を始めています。墓は葬
りの場所です。すなわち死がそこにある場所です。死の支配がそこにある場所です。墓が
空であったということは、死がもはや支配していないことを示しています。死が克服され
たときが始まったのです。
 天使たちはマリアたちに墓が空であることを見せたのち、弟子たちにガリラヤで待って
いるようにと伝えるように言います。マリアたちは恐れながら喜んで弟子たちのところに
行く途中、復活のイエス様が彼女たちに顕われられたのです。そして「おはよう」と言わ
れたのです。顕われたということは、イエス様が生きておられること、しかも死を克服さ
れた命に生きておられることを示しています。そのことにマリアたちが出会ったことを示
しています。そしてイエス様は「おはよう」と声をかけられたのです。この「おはよう」
という言葉は原語では「喜び」を意味している言葉なのです。命令法で書かれていますの
で「喜びなさい」を意味している言葉です。イスラエルの民があいさつの言葉として「シ
ャローム」を使いましたが、この言葉は「平和」を意味しているものです。だからあいさ
つでこのシャロームを使うことはその底にあなたに平和があるようにという意味があるの
です。それと同じように復活されたイエス様がマリアたちに「おはよう」と言われたのは
そこに喜びなさいという意味を持った挨拶なのです。マリアたちは多分感動と、畏敬の念

と喜びを持ってイエス様の足もとにひれ伏したのでしょう。死を超えた命がそこにおられ
るのですから。
 最後にイエス様が顕われたことについてもう少し見てみましょう。今日の日課の後マタ
イ福音書ではイエス様もガリラヤに行かれ、そこで弟子たちに自分を顕され、そして弟子
たちを宣教へと派遣されました。他の福音書もいろいろな形で弟子たちに自分を顕されて
います。初めにあげた復活についての第1コリントの15章ではパウロが復活の主に出会っ
た人たちを順にあげて、最後に月足らずで生まれた自分にも顕われてくださったことを記
しています。そこには12人の弟子たち以外にも500人以上の人もと記されています。この
弟子たちに復活の主が顕われてくださったことで注目すべき点があります。それは今日の
使徒書の日課にもあるのですが、復活の主はすべての人に顕われられたのではないという
ことです。そこにペトロの言葉として使徒言行録はこのように伝えています。「しかし、
それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中
から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」民全体が復活の主に接
したわけではなく、限られた人達だけでした。考えてみればエマオ途上の二人の弟子も、
イエス様と出会ってすぐに復活の主であると理解したわけではありません。色々話し合っ
たのにそうではなく、一緒に食事の席について、イエス様がパンを割いてお渡しになった
時、二人の目が開けてイエス様だとわかったのですが、そのあと姿が見えなくなったと書
かれています。またマグダラのマリアはヨハネ福音書によれば、墓のそばで立っていた時
、復活の主がそばに立たれたのですが、園丁だと思ってイエス様だとわかりませんでした
。イエス様が「マリア」と声をかけられた時、イエス様と分かったと記されています。こ
のことを見ると、何か具体的な姿があるけれど、そのままでイエス様と分からない、何ら
かのイエス様を思わせる働きかけがあった時、目が開けて復活のイエス様だとわかったこ
とが分かります。ではこれは作り事かというとそうではなく、弟子たちはこのことに出会
って全く生き方が変わり歩んでいった事実があるのです。
 このことを見ると、イエス様の側からの示しがあり、それを受け取った者には復活の主
とのまことの出会いがあり、それによって復活の命に生かされることが分かります。これ
を私たちのことに向けてみれば、御言葉により、イエス様の復活を受け入れ信じた者には
復活の命に生かされることが与えられると考えられます。すなわち復活の主がその人に顕
されたともいえると思います。今日この記念すべき日に、イエス様が復活されたとの聖書
の言葉を受け取り、信じて復活の命に生かされていきましょう。