礼拝説教
エゼキエル37:1~14、ローマ8:6~11、ヨハネ11:1~45
今日は四旬節第5主日でいよいよ来週の日曜日から受難週に入ります。イエス様の十字
架の出来事を特に覚える時がやってきます。そして今日の福音書の日課も前後関係を見る
と、受難の歩みのなかにあり、イエス様がそれを受け取っておられることがよくわかりま
す。そしてそのような歩みのなかで、イエス様は死を越えた命、永遠の命を私たちに与え
てくださる方であることが示されている個所です。そのことを旧約、使徒書も含めて今日
の日課から聞いていきましょう。
今日の福音書の日課を見ますと、直接イエス様の受難の出来事と関係ないように見えま
すが、前後を見るとそうではありません。先週の日課の生まれつき目の見えない人をいや
された出来事が、安息日になされたことなどから、ファリサイ派の人たちと対決が生じ、
さらに10章の後半ではイエス様が自分を神の子と示されたことから神を冒涜しているとし
てユダヤ人たちはイエス様を石で撃ち殺そうとします。イエス様はそれを逃れて、ヨルダ
ン川の向こう側に滞在されました。今日の日課の出来事はそこから始まります。そして今
日の日課の後はイエス様がラザロを生き返らせた後、そのことを知った祭司長やファリサ
イ派の人たちはイエス様を殺そうと計画を立てるのです。ですからヨハネ福音書では今日
の日課の出来事がイエス様の受難の直接の原因となっています。その出来事の中でイエス
様こそ復活であり命であること、死を超えた方であることが示されています。
ヨルダン川の向こう側に滞在されていた時、ある知らせが来ます。それはイエス様と関
係の深いマルタとマリアの兄弟ラザロが病気であるとの知らせです。この姉妹はイエス様
にラザロが病気であることを人をやって知らせます。このことからラザロの病気は重いも
のであること、またイエス様が来てくださればラザロはいやされると姉妹が信じていたこ
とが想像されます。それはラザロが死んだこと、その後にイエス様がそこに行かれたとき
、マルタもマリアもイエス様がいてくだされば、ラザロは死ななかっただろうと言ってい
ることからわかります。でも不思議なことに、イエス様はそのことが分かっていられただ
ろうにすぐに急いでべタニアに行かれませんでした。二日間もその地に滞在されたのです
。そしてその理由として「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるの
である」と言われました。
イエス様は二日滞在されたのち、べタニアにすなわちエルサレムの方に行こうとされま
す。弟子たちはそれを止めようとします。それはそこに行けばイエス様が殺される危険が
あるからです。ラザロは眠っているとイエス様が言われたので、それなら行く必要が無い
と思ったから、危険を冒さないようにと弟子たちは思ったのだと思います。しかしイエス
様はラザロは死んだのだと言われ、そして彼のところに行こうと言われ、行くことになり
ました。ラザロの死に関することですが、イエス様自身も死を受け取る方向を覚悟しての
ことです。そのことをディディモという弟子の言葉「わたしたちも一緒に行って死のうで
はないか」が示しています。
イエス様はべタニアに行かれました。村の入り口でしょうが、イエス様が来られたと聞
き、行動的なマルタはすぐにイエス様のところに行きます。そしてイエス様に会うとイエ
ス様がいてくださればラザロは死ななかったのにと少し恨みがましいことを言います。し
かしイエス様への信頼は揺らぎません。そのマルタにラザロは復活するとイエス様は言わ
れます。マリアは終わりの時に復活することは知っていますと答えます。それを受けてイ
エス様は今日の日課の中で中心的なこと、大切なことを言われます。それはイエス様こそ
復活であり、命であること。そしてイエス様を信じる者は死んでも生きる。生きていて信
じる者は決して死ぬことはないと。分かりにくい、でも重要なことを言われました。イエ
ス様によって死を超えた命、すなわち永遠の命が与えられること、その命に生かされるこ
とを伝えられているのだと思われます。この言葉から、マルタはイエス様こそ神の子、メ
シアと信仰告白します。
次はマリアです。マルタに告げられて、家にいたマリアはイエス様のところに行きます
。この時マリアと共にいた近所の人たちはマリアが墓に行くのだと思ってついて行きます
。死は虚無の世界、暗闇の世界です。それに打ちのめされ、家に座っており、それを慰め
に来た近所の人たちはその悲しみの場、墓に行くのだと思ったのでしょう。しかしマリア
はイエス様のところに行きました。そして悲しみのあまりイエス様の足もとにひれ伏しま
す。そしてマルタと同じようにイエス様がいてくださればラザロは死ななかっただろうと
言います。マリアも一緒にいたユダヤ人も泣いています。この時少しわかりにくいことを
ヨハネは伝えます。イエス様は憤りを覚え、興奮され、しかも同時に涙を流されているの
です。イエス様も泣いておられたのだから、泣いているマリアやユダヤ人に対して憤って
おられるのではないでしょう。むしろ同情しておられると思います。憤っておられるのは
死の支配そのものに対してでしょう。彼らが泣いているのは死の支配の中にいるからです
。
イエス様はラザロが葬られている墓のところに行かれました。もう死んで四日もたって
いるのですが、墓のところに行きその石の戸を開けさせられます。そして戸口に立って語
りかけられるのです。「ラザロ、出てきなさい」と。するとラザロは布で手足を包まれた
まま出てきます。この出来事は今日の旧約聖書と関連があります。預言者エゼキエルが枯
れ果てた骨に、神様からの言葉を告げたとき、骨は元に戻ったのです。神様の言葉に力が
あること、イエス様はこの世の死をも超えた方であることが示されています。
今日の日課で一番聞きたいことは、わたしたちは確かに終わりの時に体の復活が与えら
れていると伝えられていますが、今日の日課はそれ以上に、今この世で生きている、この
時に復活の命、永遠の命に生かされているということを伝えています。確かに神様はこの
世での死を与えられていますが、しかしその死はすべてではなく、イエス様の十字架によ
って贖われ、それを受け入れた私たちには、今生きている時に永遠の命が与えられている
こと、永遠の命に生かされていること、死に支配されない命に生かされていることを伝え
てくれています。今日の使徒書の日課では「もしイエスを死者の中から復活させた方の霊
が、あなたがたに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがた
の内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでし
ょう。」とパウロは言っていますが、これは同じことを言っていると思います。イエス様
に結ばれて、この与えられている永遠の命の内に生かされていきましょう。