2023年3月19日「神の業が現われるために」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:ヨハネ 9 章 1‐41 節
説教題:神の業が現れるために

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

『主よ、何故このようなことが起こるのでしょうか。』目の前にある不条理に対して、私たち
はいつも、主に問いかけます。3月10日、天に召された三浦知夫牧師の葬儀が13日、東京
池袋教会にて執り行われました。宇部教会、厚狭教会の牧師として1999年から2001年に
かけてお働きくださいました。当時の話をお聞きしたことがありますが、苦労の多いお働きで
あったと思います。積極的に言葉にして思いを伝える先生ではなかったように思います。しか
しその働きは、多くの者の心に確かに残されているのではないでしょうか。厚狭教会のキャン
プでお会いした保護者の中に、三浦先生のことを覚えておられる方がおりました。その方は
学校の先生なのですが、こう言っていたのです。『もう20年くらい昔、キャンプの夜に三浦先
生と朝まで語り合ったんだよ。何を話したかはもう覚えていないけれど、科学では解明でき
ない何かが確かにあること、言葉にできない何かがあることを、教えてもらったんだよ』と。三
浦先生は、言葉にできない何かを伝えることのできる先生だったのだと、改めて思います。

キリスト教の教義・教理をどれだけ学んでも、信仰に至ることは稀でしょう。信仰に至る、
つまり神を信じるか信じないか、それは人間の理解を超えたところにあります。今朝の福音
書日課は、まさにそのことを言っているのではないでしょうか。弟子や、ファリサイ派の人々は
『なぜ』と理由を探します。どうしてこの人は目が見えないのか、そして、どうして見えるように
なったのか。彼らからしてみれば、この日起きた出来事は、なぜ、どうして、に溢れているので
す。イエスさまが奇跡を行ったのは安息日のことでした。安息日、それは仕事をせずに神さま
を覚えるための日です。だからこそ、イエスさまは土をこねたのです。シロアムの池まで行き、
顔を洗いなさいと言ったのです。安息日には水を汲みに行くこともできませんでした。歩いて
良い距離さえ決められていたのです。(およそ900メートル程度だったと考えられています。
使徒1:12参照) しかしそれは、神さまの作ったルールではありません。人間の作ったルール
です。神さまの御心はこうであると、人間がルールにルールを重ねていったのです。その結果、
神さまが人々に与えた約束、十戒は600を超す規定となって解釈されることとなりました。こ
の日、どうしてイエスさまはわざわざ土をこね、池に行き顔を洗いなさいと言ったのでしょう
か。奇跡を起こせるお方が、生まれつき目の見えないこの人に答えたのです。これまでたくさ
ん言われてきたであろう言葉、誰のせいだとか、安息日はどうやって過ごせとか、罪人だとか、
それらの言葉、ルールを全てひっくり返されたのです。

この人がシロアムの池で顔を洗うと、目が見えるようになりました。その瞬間、この出来事
は神の業として明らかになりました。神の業、それは起きた出来事だけを指すのではありま
せん。見えない者が見えるようになる、私たちが認識できるそれだけが神の出来事ではない
のです。この日、神の出来事に触れ、多くの者が立ち上がりました。ファリサイ派の人々です。
彼らにとって、この出来事は無視できない行為なのです。安息日規定を破ったのですから、
平たく言えば犯罪です。イエスさまを告発するために、あの手この手を尽くします。当事者を
呼び、どうやって目が見えるようになったのかと問い、両親を呼び、本当にあの者はお前たち
の息子かと問いました。彼らの尋問は支離滅裂です。奇跡が起きたのだと知ると、最初から
見えていたのではないかと疑い、そうではないと知ると、イエスという男はそもそも罪人なの
だから奇跡など行えるはずがないと言う。彼らは目の前に起きている出来事を見ようとしな
いのです。彼らの心の中に在るルール、自分たちで作り上げた律法の解釈という要塞の中
に留まり続けるのです。癒された彼は、彼らに問いかけます。「あなたがたもあの方の弟子に
なりたいのですか。」この言葉にファリサイ派の人々は激高しました。『私たちを誰だと思って
いるのか。私たちは誰よりもモーセを、律法を知っているのだ。』癒された人が静かに答えま
す。『どうして皆さんが知らないのでしょうか。このような業が行えるのは、神のもとから来ら
れたかたでしかありえないでしょう。』ファリサイ派の人々は、もはや彼を見ずに、そこから追
い出してしまいました。

彼が外に追い出された時、もう一度イエスさまと出会います。自分にとって喜ばしい出来
事が起きたのに、誰も共に喜んでくれなかったのです。それだけでなく、住んでいた場所から
追い出されてしまったのです。彼は今、絶望の中に在るでしょう。その時もう一度、イエスさま
と出会うのです。彼に起きた一切を、私たちは説明することができません。どうして目が見え
なかったのか。どうして、彼だけが見えるようになったのか。どうして、なぜ、の先にある言葉を
私たちは持ち合わせていません。分かっていることは、イエスさまの方から、彼のもとへと近
づいて来られたということです。私たちが日々出会う、どうして、なぜ。答えが見つからず、不
安を覚え、時に、悲しみに暮れる。しかしそこに、イエスさまは必ず共におられる。それが、私た
ちが見つめるべきただ一つの真実です。私たちが立ち止まるそこに、イエスさまの方から歩
み寄って来てくださるのです。そして、イエスさまの姿が確かに見えること、そこに全ての信頼
を寄せてゆくこと、それを私たちは神の業、神の奇跡と呼ぶのではないでしょうか。「あなた
は、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

主が共におられる。私たちの悲しみの中に、光を携えて歩んで来てくださる。このことを見
失わずに、私たちはしばし歩みを続けてまいりましょう。願わくば、主だけが与えることのでき
る慰めが、天に召された者、地上に残された者の上に、豊かに在りますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。