2023年3月12日「永遠の命の泉」藤井邦夫牧師

礼拝説教

出エジプト17:1~7、ローマ5:1~11、ヨハネ4:5~42

 
 今日のローマ書の箇所も有名なよく知られている個所です。ふつう私たちは苦難を避け
たいものですが、そこには、「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。」という
言葉があります。それがさらに希望や神の愛と結びついていることが示されている個所で
す。
 私たちは目に見えるもの、具体的なものに支配されがちです。そしてその奥にある大切
なものを忘れてしまいがちです。それに対してヨハネ福音書で、イエス様は具体的なもの
から、霊的なものへと人々を導かれます。今日の福音書の箇所はまさにそのような個所で
す。今日の長い日課の中にはそのようなことが二つも示されています。一つはサマリアの
女に対して、もう一つは弟子たちに対してです。サマリアの女に対しての具体的なものは
井戸の水ですし、弟子たちに対しての具体的なものはイエス様の食事です。
 
 イエス様の一行はシカルというサマリアの町に着かれました。丁度正午ごろでした。イ
エス様がヤコブの井戸のそばに座っておられたところ、サマリアの女が水を汲みに来まし
た。正午ごろとあるのは意味があって、その時間帯は普通は水くみの時間帯ではないので
す。ですからこのサマリアの女はあまり人に会いたくない、たぶん何らかの事情を持って
いただろうと想像できます。イエス様はこの女に水を汲んで飲ませてくれるように頼まれ
ます。そこから話が始まって、イエス様こそ真の水であり、飲んでも渇くことのない、永
遠の命に至る水が湧き出るのであることを示されます。女は渇くことのない水を欲しい、
また汲みに来なくてもいいからと頼みます。まだ具体的な水にこだわってるようです。そ
こでイエス様は女の夫のことを持ち出し、女の状況を当てられます。そこで女はイエス様
を預言者だと思い、そこから礼拝のことを持ち出します。それも礼拝の場所で、サマリア
の人たちが礼拝している場所とユダヤ人がしているエルサレムを出します。それに対して
イエス様はまた真の礼拝は霊と真理をもってするもので、その時がやってくることを示さ
れます。その時がやってくるということで、女はメシアのことに思い至ります。そしてイ
エス様は自分がそれであることを伝えられたのです。女は水からまことの命の水へ、礼拝
からまことの礼拝へ、メシアからイエス様こそそうであることへと導かれ、村に行って証
しをしたのです。
 弟子たちに対しては食事からイエス様の食事は神さまのみこころを行いその業を成し遂
げることであり、弟子たちはその働きの刈り取りをしているということ、神様の働きへと
導かれたのです。
 話は変わり、わたしたち自身のことを考えると、わたしたちは苦難があると、マイナス
な面に心が行き、それに圧倒されがちです。具体的なものに支配されがちなのです。わた
したちの多くは高齢になり、肉体や知的な衰えを感じています。また肉体的に、痛みや不
自由な中にある者、また施設や病院に入っている者、そのような時、その具体的なものに
支配されがちです。今日の旧約の日課はそのことをよく表しています。神様に導きだされ
ていたのですが、飲み水がないと文句をモーセに言います。神様は岩から水を出させて彼
らの渇きをいやされます。シナイの荒れ野での40年間神さまは神様がイスラエルの民を養
われることを教えられました。人には具体的なもの、食べ物や飲み物が必要だけれども、
神様がそれを与え養ってくださること、神さまへの信頼、信仰を教えられたのです。
 これに対して今日のローマ書の箇所はもっと素晴らしいことを示しています。それは苦
難を嫌なもの、避けたいもの、でもきっと神さまがおられるから何とかなるだろうという

より、積極的に苦難を誇りにしていると言っているのです。誇りにしているというのです
から、苦難を受け取り、その中で前向きに生きていることを示していると思います。そし
て、この誇りにしているということは単に単独で個々に出てくるわけではありません。そ
の前に「神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」とあるのです。この関連の中で「苦
難をも誇りにしている」ということが出てくるのです。神の栄光の世界とは、何ものにも
支配されない、暗い影のない完全な命の世界、体の復活の世界と言っていいでしょう。希
望を誇りにしているというのですから、それを確信していると言っていいでしょう。そし
て希望を誇りにするということにはその前に書かれたこと、5章のはじめのことがありま
す。それはイエス・キリストによって義とされていること、神さまとの間に平和を得てい
るということです。それをすでに受け取っているということです。イエス様の救いの出来
事はすでに成り立っている。わたしたちに与えられている。それを私たちは受け取り、神
さまとの平和の中に入れられている。義とされている。だから「神の栄光にあずかる希望
を誇りにしている」のです。この元にあって「苦難をも誇りにしている」と言っているの
です。
 神様との間に平和を得ている確信の中にあって苦難はマイナスの存在にはならないでし
ょう。見える部分で苦難であっても、深い所ではマイナスではなく、むしろその苦難を受
け取り、まことの命の中にあって、その時々どのようにすればいいかを学んでいくでしょ
う。そして誠の命の中にあることの希望は失われることは決してないのです。もし自分に
目が向き、自分のいたらないところに目が向き、また自分の失敗に目が向き、自分は真の
命にあずかれないものではないかと思うことが生じたとき、決してそうではないことを知
るべきです。パウロは言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストは
わたしたちのために死んでくださった」と。また「敵であったときでさえ、御子の死によ
って神と和解させていただいたのであれば」と言っています。わたしたちがマイナスな状
態であると言って、自分はだめだと思うことはないのです。まだイエス様を受け入れてい
ないとき、敵であったときにさえ、わたしたちを救いへと導いてくださったのだから、イ
エス様を受け入れた今はなおさらイエス様の命に救われるのです。
 すべての背後にある神様、そしてイエス様による贖い、救いがもうすでに与えられてい
ることに心を向けて、それを受け取って信仰生活を歩んでいきましょう。