2023年2月26日「イエスの受難・試みを受けられる」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記2:15~17、3:1~7、ローマ5:12~19、マタイ4:1~11

 
 受難節、レントに入って最初の日曜日です。そこに与えられた日課はイエス様がサタン
の試みにあわれた個所です。今日は3つの日課が分かりやすくつながっています。旧約は
アダムが蛇の誘惑に負けたこと、福音書はイエス様がサタンの試みに克たれたこと、そし
て使徒書はアダムによって罪、死の支配が来たことに対比してイエス様によって義といの
ちの世界が来たことが与えられています。今日はこの3つの日課から聞いてみましょう。
 旧約聖書は蛇によって女が禁じられていた木の実を食べ、アダムもまた女に誘われて食
べてしまった、ほとんどの人が知っている有名な出来事です。蛇の誘いはとても巧妙であ
ることが聖書を読めばよくわかりますが、今日はそこに焦点を当てずに別のことを見てみ
たいと思います。この箇所を読むと昔からなぜかなと思うことがありました。それはアダ
ムとエバが取って食べた木の実は善悪を知る木の実であったということです。これが悪を
生み出す木の実なら取って食べてはならないということがよくわかるのですが、善悪を知
る木の実なら、賢くなっていいのではないか、善悪を知ることが出来ればいいのではない
かと思えたからです。
 でも、ここには根本的な問題がありました。それは善悪を知る木の実を食べたことによ
って、自分が善悪を見分ける賢いものになったということ、善悪を見分ける主人に、言い
換えれば善悪を見分ける主体に自分が成ったと思うことが問題なのです。自分はこう判断
する、自分が、自分がということになったのです。神様が存在する、神様が入り込むこと
が出来なくなったのです。よく自己中心になったと言われますが、判断する主体に自分が
成ったことが根本的な問題なのです。だからアダムとエバは恥ずかしいと思って腰をいち
じくの葉で覆いました。創造のはじめにはすべては良いと言われた神様にとっては腰を覆
うことが御心ではありませんでした。こののちに、罪に陥ったのちに神様は21節で彼らに
皮の衣を作って着せられたのです。
 福音書を見てみましょう。イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられた出来事です。霊
に導かれてというのですからこの出来事は神さまの御心であったことが分かります。四旬
節の最初に与えられていることからも、このイエス様の出来事はわたしたちの救いのため
でもあったこと、わたしたちにとっては恵の出来事であったと理解できます。3つの誘惑
にあわれたのですが、その誘惑の内容も私たちにとってとても意味のあるものですが、今
日はそれを細かく見るのではなく、イエス様がこの誘惑に対してとられた態度を見てみた
いと思います。それは3つの誘惑に対してすべて聖書の言葉で答えられたということです
。ということは、自分の考えではなく、神さまのみこころによって答えられた、神さまの
みこころに立たれたと言っていいでしょう。
 最初の試み、石をパンに変えなさいという悪魔の試みの出来事に対して、むかし、ドス
トエフスキーのカラマーゾフの兄弟の3兄弟の真ん中のイワンが、この誘惑を持ち出して
、もしイエス様がこの誘惑において石をパンに変えていたらこの世から飢饉や餓死はなく
なっていたというようなことを言っていたのを覚えています。イワンは兄弟の中でも一番
知的な人間として描かれています。イエス様は神の子ですから知恵もあり、石をパンに変
える力もあるはずです。しかし、イエス様は自分の考えや力で行動するのではなく、聖書
の言葉、神様のみ旨で答えられたのです。悪魔はイエス様が聖書の言葉で答えられたので
2番目は聖書の言葉をもって誘惑しました。これに対してイエス様はまた聖書の言葉で答
えられました。この誘惑を見ると、聖書の言葉も、自分が主人となって自分のために使う

ことがあるということを示しているでしょう。それに対して、イエス様は神様を中心に置
いて神さまのみ旨で答えられたのです。
 このことを見ると、アダムとエバに対する出来事、善悪の判断に対して自分を主人にし
てしまったアダムとエバの出来事をイエス様は完全に回復させられた、自分が主人となる
のを逆転されて神さまを主人にされたことがよくわかります。
 今日の使徒書の箇所はアダムの世界とイエス様の世界を対比して書いているところです
。17節に「一人の罪によって、その一人によって死が支配するようになったとすれば、な
おさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通し
て生き、支配するようになるのです。」とあります。一人の人アダムによって、自分を主
人として生きることによって、罪と死の世界にわたしたちは入れられてしまったが、しか
し一人の人イエス・キリストによって、神さまを主人として生きる世界に入れられて、義
と命の世界に生きるものとさせられたとパウロは言っていると、今日の日課からは理解す
ることが出来るのです。
 そしてこの箇所で大切なことは、アダムの世界とイエス様の世界は並行して書かれてい
るのではないことです。一見並行して書かれているように見えますが、よく見ると、アダ
ムの世界をイエス様の世界が凌駕していること、飲み込んでいること、そのことを伝えて
いるのです。アダムの世界は目に見えやすいものです。だから私たちは現実の世界を見る
と、アダムの世界が現実であるように見えます。しかし、パウロが伝えているのは、イエ
ス様の世界こそ真の現実なのであるということです。イエス様の世界は目に見えにくいの
ですが、確かにそれがあることを知って、それを受け取れば私たちは命の世界に生きるこ
とが与えられているのです。試みに関しても同じことが言えます。わたしたちの前にはす
でに試みに克たれたイエス様がおられるのです。